友人のDimaが亡くなった。
Dimaはロシアのミュージシャンで、もういつのことだったか、
彼の2枚目のアルバム"ОН"(「彼」の意)のディスクが買いたくて、
レーベルにメールで問い合わせたのが最初だった。
日本から問い合わせが来たよと事務所から連絡があり、
それなら直接連絡するよと彼自身からメールの返信があって、本当に驚いた。
当時はもうちょっとした人気があって、そういう気さくな人なんだと驚いたけれど、
当のDimaは「どこで俺のことを知ったのか、どの曲が気に入ったか」等々質問のてんこ盛りだった(笑)。
モスクワと東京では数時間の時差もあり、ライブでチャットをするにはきつかったから、
その日以来、メールのやり取りが始まった。
チャットが苦しいのは、当時のパソコンではキリル文字をガンガン打ち込める仕様ではなかったのと、
そもそもそこまでロシア語ができるわけではなかったこともある。
そのうち、
彼の歌の日本語バージョンを作る手伝いをしたり(バンド仲間からいろいろオーダーが届いた)、
ついには私に歌まで書いてくれ、
溢れるイメージがどんどん音楽に生まれ変わっていく様が本当にアメージングだった。
***
去年の春先、珍しく沈んだメールが届いた。
具体には書かれていなかったが、病気で余命がわずかしかない、そんな覚悟が見え隠れした。
俺のことを覚えていてくれ、と書いていたけれど、忘れるはずも忘れようもない。
もう15年近く、ずっとやりとりしているのだから。
モスクワが「バブル経済」に沸き、私に「こっち(モスクワ)で不動産でもやったらどうか、
きっと儲かるよ、東京よりもモスクワの方が君に合うさ」なんて軽口のメールを何度もらったか。
そういう彼も、一皿が随分な値段のレストランでパーティーをやっても、
どこか満たされない、そういうのはちょっと違う、そう感じていた風だったけれども。
いつしかレーベルとの契約が終わり、如何にも彼らしいインディーズな音楽活動が展開され、
曲ができる度に、
以前は人を介して届けられたCD -Rからファイルダウンロードに姿を変わりはしたが、
ほんとうに都度届けてもらい聴いていた。
そのうちボーカルを取ることが少なくなり、あれと思いつつも彼もいい歳になったせいなのか、
などと勝手な解釈をしていたが、ひょっとしたら病気はその頃わかっていたのかもしれない。
訃報が届いてからしばらくは実感がなく、呆然とした。
死期を悟った連絡を何度も読み返してはいたけれど、彼が遠くに逝くなんて。
彼の思いが音楽に形を変えて今もわたしの傍にいるからなのか、
それともわたしが悲しい出来事から目を背けたいだけだからなのか。
最後にもらったメールの主旨を理解してはいたけれど、
さよならって言われても、さよならは言わないよ、と返したわたし。
それで本当によかったのか。もっと伝えるべきことがあったのではないか。
彼と知り合った当時、脇道をトラックが通るだけで揺れるアパートに住み、
窓越しに伝わる雨音の何とも言えない侘しさから独り言のようなメールを送ったら、
美しい詩になって返事がかえってきた。
そんな彼は、若い頃だらしなかったんだ、もっと勉強していれば英語も流暢になれたのに、
とこぼしていたが、
ブロークンなロシア語の雨あられは、今となっては理解するのが大変な以上にいい思い出。
彼からもらったアルバムや楽曲を古い順にずっと聴いてきたが、
youtubeにもっと映像があったはずと思っていたのがそれほどたくさん残っていなくて、
手元のデータを勝手にアップするわけにもいかないから、
1曲だけ選ぶとしたら、と選んだのが"Когда-нибудь"(いつの日か)。
歌詞を訳そうと思ったけれど、ここまで我慢していた涙が溢れてきたのでやめておいた。
わたしの記憶通りの彼がこの中にいる。最後まで友達でいてくれてほんとうにありがとう。