音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
フェードアウトしない「青い影」
 曲の終わりがフェードアウトじゃない「青い影」があるよ、というので、とりあえずAmazonで購入した"30th Aniversary Anthology by Procol Harum"。3枚組のボックスセットになったこのCDの最初の2枚は、オリジナルアルバムの2in1になっていて、特になんということはない。楽しみにしていたのは3枚目のシングル&別テイク集。

 気になる「青い影」はステレオバージョンでしかもライブ録音。なるほどライブだからフェードアウトできないんだ、それに気がつかない私も私だが(笑)、肝心のエンディングはとても素直なものですっかり納得してしまった。

 青い影の通常バージョンはフェードアウトしているので、以前オルガンで遊び弾きしているときでさえ、最後はどんな感じなんかなあと想像しながらあれこれ勝手にエンディング作って弾いてしまっていた。もっとも、曲の途中も好き勝手にアレンジしてしまうから、オリジナルのエンディングにこだわらなければならない理由は何一つ無いが、後ろに流れるオルガンのメロディラインがシンプルで美しく、私にとって主旋律以外のパートがすっかり頭に入っている曲なんてそうはないので、長く気になっていたのだ。

 このボックスセット、決して安くはないのに装丁が今ひとつなので、よほど何かにこだわりがなければ人にはお勧めしづらい。ただ救いは、音質的には素直で聴き易いので、プロコルハルムが好きなのに私同様ベスト盤プラスα程度しか揃えていない方には候補の1つになるかもしれない。

 それにしても、音楽ソフトは企画ものというか、再発、リマスター、未収録テイク入りなどなど、本当にきりがない―金銭的にも場所的にも―のだけれども、ついつい買ってしまったりする。近日中に、Chetのリイシューとピンクフロイドの紙ジャケCDが各々何枚かずつリリースされるが、少なくとも後者は買ってしまいそうな気がする。その音が気に入るかどうかわからないのに、装丁がきれいだというだけで買ってしまったりする私はやはり人間が弱いのだろう、そういう言い訳をしながらCDの置き場所を確保していたりする(苦笑)。ソフト買いはフェードアウトどころかエンドレスなのが辛いなあと感じる今日この頃である。
pop & rock | - | - | author : miss key
金魚にも明け二歳
 4月も残すところ2日。最も慌ただしい時期に転居して早3週間、部屋の中も片付いてようやく落ち着いた。去年1年のうちに、広いところに引っ越したらあれもしよう、これもしようと思い巡らしていたが、ものごとにはまり易く、寝食忘れて没頭しがちなので気をつけなければと思う。

 先日、お祝いをいただいたが、その候補に金魚セットがあった。鑑賞魚が飼いたいという気持ちはずっと前からあって、マニアの方や某水産試験場の金魚の飼い方のサイトを眺めてはため息をついていたが、いざ実際に飼うとなると、生き物への責任が生じるから、やっぱり簡単ではない。

 エサをあげたりする面倒さは感じないが―むしろ日課ができるのは良い事だ―、死んだときのロスト感が何とも言えず、私は生き物が飼えずにいる。ロストの痛みというのは、例えば犬や猫のようにコミュニケーションに長けた動物達なら、家族同然の彼らを失った悲しみというのは想像し易いだろうが、私の場合はそれこそ虫一匹でもかなり尾を引いてしまう。道に乾涸びて転がっている蝉の死骸が目に入っただけでも・・・。その上、小さな生き物は一般に寿命がそれほど長くないから、どうしてもその「頻度」が上がってしまう。そんなのは、とても耐えられない。

 それでも、やっぱり金魚が飼いたいと思い、教えていただいた専門店を覗いてみた。東京というのは何が素晴らしいって、強烈な専門店がそこここにあることだ。背景にある人口と立地の良さは、かなり商品を絞り込んだお店でも成り立たせてしまうような素地がある。もっとも、そうはいっても顧客の高い要求に応えられる内容でなければ、いくらも続かないことには違いないだろうが。

 さてそのお店。らんちゅうや土佐金など、品評会に出されるような美しい姿をした金魚が並んでいる。らんちゅうというと、それこそ昔のお金持ちが優雅に眺めて暮らした高級観賞魚というイメージがあるが、面白いことに、当歳とか、これは明け二歳という具合に年齢も表示してあって、まるで馬のようだと思わず表情を緩めてしまった。専門店というのは敷居が高くてこちらの方が緊張してしまうものだが、店員さんもとても親切で、金魚の飼い方についてあれこれとレクチャーもしてくださった。

 金魚の方でも、値段の高い私を買う客ではない、というのがわかるのだろうか。どこかよそよそしさを感じるといったら笑われるかもしれないが、それなりの扱いを日々受けている金魚たちなので、立ち振る舞いにも余裕綽々、およそ家のような庶民宅には縁がなさそうではある(笑)。それにしても、生まれたてだというらんちゅうの稚魚たちのかわいいことといったら!

 稚魚たちの泳ぐのをみていると、以前の家の近所にあったペットショップに並ぶ、メダカが懐かしく思われた。体の大きさに比して目が大きい、というのも可愛さを倍増させる要因になっていると思われるが、あのちまちませかせかと泳ぐ様が、落ち着きの無い私によく似て、彼らならいっしょに暮らせるかなとも思う。

 しかしながら、知人のアドバイスによると、メダカというのはどんどん増えはするが、近親婚であるが故に体質が弱くなり、一時期に大量死するという。この点、もっとも私に向いていないではないか。そんな一時に大量に死んだらお葬式を出すのも大変だ。そんな想像をして思わず唾を飲み込んでしまう。

 それにしても金魚。しっかり飼ってあげれば寿命も長く、成長力もあるという。自分自身の健康管理などろくにしないくせに、金魚には過ぎた長寿を望んでしまうあまりの手前勝手さに自分でも呆れてしまう。さて、果たして金魚が我が家にやってくるかどうか。物事に迷う時期が一番幸せという人もいるから、しばらくはあれこれ迷ってみよう。当分は今日見たらんちゅうを頭の中で泳がせて過ごせそうだから。
よもやま | - | - | author : miss key
片棒担いだりはしない
 唐突に一体何だと思われるかもしれない。最近つくづく思うことだが、すべからく物事が安易になっているように思われてならない。もっと言えば、自分さえ良ければいい、とか。人を思いやる余裕のない世の中なのだと言ってしまえばそれまでのことかも知れないが、だからといって投げやりな態度が肯定される訳でもなかろうに。

 私のような歳になると、人間関係もそれなりに広くなっているし、いろんな分野でがんばっている知人友人がたくさんいることは、私にも励みになるし、何より生活を楽しくしてくれる。多くの方から支えられていることは本当にありがたいと感じている。

 その一方で、家庭持ちの異性から安易に誘われたりするのが一度や二度ではなくて、正直がっかりしている。何もモテることを声高に叫ぼうというのではない。家庭持ちの、が問題なのだ。おそらくそういう風になる背景には、私の年齢や立場が、後から面倒なことにならなさそうだと思わせるものがあるのだろうし、相手のそれにしても、自分の人生を振り返ったり、あるいは経済的に少しは余裕があったりと、「そういうこと」を考える条件が揃っているのかも知れない。それにしても、だ。

 自分に興味を持って誘ってくれる人の存在は、いろんな意味で励みになる。その相手によっては飛び上がるくらい嬉しい気持ちになれるかも知れない。固いことは言いたくないし、相手の恋愛観に立ち入る気もない。しかし、私は他所の家庭を壊す片棒を担いでまで何かしようとは全く思わない。善し悪しではなくて、それは私自身の信条の問題だ。

 先日も面倒な話があった。5人の仲間で飲んでいた時のこと。10年来の友人から旅行を持ちかけられた。内心驚きつつも、話が聞こえていない振りをして無視していたら、その男性が何を言うかと思ったら「男女の間には友情は成立しない」とまで言う。そこまで、言うか。仕事や趣味の上で、いろいろな示唆を与えてくれる大切な友人だと、私はずっと思ってきたし、彼が結婚し、子供もできて、あるいは会社で責任ある立場に昇進したりという度に仲間とともにお祝いもし、共に喜んできたのだ。それが・・・。

 正直、私はがっかりし―それは相手にではなく、そういう関係性を信じて来た自分に―、そのことを言葉にして伝えた。そういうこれまでの付き合いや家庭を裏切ってまでする値打ちのあることとは到底思えないからだ。それを言ってまだ納得しない相手なら、未来永劫相手の顔を見る必要なしとまで思ったが、さすがにそこまで彼は考えていなかったようで、すぐに自分の軽卒な物言いで気分を悪くさせたと謝られた。その夜の不味い酒といったら。

 例えば、ネットを通じて知り合った人間関係というのは、知り合う事自体が簡単だったりするから、余計に配慮のない関係を求めたり、求められたりする素地があるのかも知れないと感じている。ストーキングしたりなどと犯罪性のあるものは否定されて当然だが、人と人との関係性が質的、量的に大きく変化して、それについていけない人間の危うさをそこここに感じると言ったら言い過ぎだろうか。

 人みな40代ともなると、それなりにしがらみも増えて、オーバーストレスになりがちなのもよく分かる。だからといって、諸般の事情を飲み込めそうな手近な異性の友人で帳尻合わせようなんていうのは、あまりに安易すぎないか。誘われた当人は、表面的には笑って済ませても、近くのビル屋上から飛び込みたくなるくらい鬱な気持ちになったりするのだ。それとも、もっと友達を選んだ方がいいよ、と一笑に付されて終わる話なのだろうか。

 人の幸せを壊してまでしていいことなど何ひとつない。簡単なルールが守れなくなっている今時だからこそ、そういうことを改めてきちんと自分の中で確認していきたい。それが迷いの多い世の中で生きていくことの術のように感じるからである。
よもやま | - | - | author : miss key
「欲しいものリスト」のすすめ
 思い願えば実現する、という訳ではないが、ふとしたきっかけで自分の「欲しいものリスト」を作っておくのはなかなか楽しいことだと気がついた。もっとも、私の欲しいもの、というのは人から見ても分かり易いようで(笑)、先日などは「どれが欲しいですか?」と示されたリストのなかの大多数(8割!)が実際に私がとても欲しいと思っているものばかりで驚いた。

 いまどきは、飽食に飽物ではないが、昔のように何かが欲しくて一生懸命働いたり、というのが少ないような気がする。街に行けばたいていのものは売っているし、そうでなくてもネットで手軽に手に入ったりする。便利だ。便利なんだけれども、どこか、空しい。そう感じている方には、うってつけの「欲しいものリスト」作成のすすめ、だ。

 別に他人の消費を煽ろうとしているのではない。よくよく考えてみれば、本当に欲しいと望んでいるものは意外に少ないし、なぜそれが欲しいのか改めて考えてみると、自分という人間の心の奥底が透けて見えるようで面白いのだ。「そんなことしないと自分の考えていることもわからないのか」と怒られそうだが、人間は本心をマスキングしていたりして、その場をうまくやり過ごしていたりするから、人によっては、大げさな言い方を許していただければ、心の解放につながるかも知れない。

 私は改めて、欲しいものを紙に羅列してみた。鉛筆で一つ一つ、モノの名前を書き付けるのは、これまた意外に楽しい。すぐ買えそうなものもあれば、モノ自体あるかどうかもわからないものもある。そして、本当に欲しいものをより抜き、優先順位をつけてやることで、リストは完成である。それをニンジンにして、GWのだれた気持ちを立て直すのもよし、そうでなくても作ったことのみで完結するもよし。私は、当然、前者であるが(笑)。

 私は自分のリストから、次の給料日に多少余裕があったら(笑)、バルテュスの画集を買おうと思う。昔、京都の美術館でみて画家の描いた少女の像が目に焼き付いて離れない。彼の国の美術館にまで足を運んで、と思っていたがなかなか実現しないので、作品と再会を果たすまでの間、画集を眺めて楽しむことにした。ちょっと前なら銀座に画集の充実した洋書店があり、すぐにでも選べただろうが、今はその店もない。さてどうするか。熱い紅茶をすすりながら思いを巡らせるひととき。久々の書店巡り、祈るは週末の好天のみである。
よもやま | - | - | author : miss key
不良会員
 日頃普通にサラリーマンをして、職場との往復を重ねることがどことなく不安に思え、学生時代の恩師にお願いして、研究者でもないのに小さな学会に籍を置いている。小さいとはいいながら、専門誌に取り上げられたりもするし、論文誌も毎年必ず出版しているので、その背景にあるメンバーの研究を思えば、本当は末席とも言えども自分がそこにいるおこがましさを覚えたりもする。

 ちょうどここ1、2年ほど、公私ともに急激に忙しくなり、うっかりと会の年会費を収めるのを忘れていた。夏の合宿の案内と同時に論文誌と振替用紙が送られてくるのだが、その時にすぐ払っておけばいいものを、たまたま手持ちがなかったのだろう。それにしても月にすればわずか600円ほどの会費を滞納していたとは・・・。

 引越作業をしていて、論文誌を改めて斜め読みしていたら、ぱらりと落ちた用紙に目が留り、名実ともに自分が不良会員化していることを悟った。さすがにまずいと思い、先述のK先生にメールしたところ、まだ籍は残されているようでほっとする始末。先生からすれば、どうして音信不通になっているのだろうと心配してくださっていたようで、近況をあれこれお知らせすると、なるほどということになった。

 繰り返しになるが、私はただのサラリーマンに過ぎず、じっくりと本を読み深め、資料を分析するには時間がなさ過ぎる。最近は、最期の心の砦とも言えるロシア語すらも怪しい。自分の不勤勉を棚に上げて偉そうなことは言えないが、なんとかしなければという焦りにも似た気持ちが正直なところである。

 研究も勉強もしないで会にいる、というのは外から見ればおかしな話だろうが、会に参加していることが私の心の中のつっかえ棒の1つになっている。長くサラリーマンをやっていると、いろんなしがらみが増えて、組織の有り様そのものに辟易することも少なくない。それでも食べていかなくてはいけないから働くわけで、そのためには自分を内側から支えるつっかえ棒が1つでも多い方がいいと思っている。どんなにそれが下らないものやことであったとしても。心の健康を保つのは大変だなと感じる今日この頃である。
よもやま | - | - | author : miss key
ラストクロップ・サンデー
 JRAの広報誌がDVD付きのカラーグラビア雑誌にリニューアルされて早3ヶ月、一度は購読から離れた私もDVD欲しさに改めて買い始めている。その5月号、特集はサンデーサイレンスのラストクロップから60頭の紹介だった。

 ラストクロップというと、私が憧れて止まないダンシングブレーヴの最終世代の時も、株を買わないかと随分誘われて困ったことがある。偶然、勧められたのはみな牝馬であり、持つならたとえ1口であっても牡馬と決めているので、迷うことはなかったが、これで彼の子供たちも最後か、と思うと胸に迫るものがあった。

 ブレーヴの場合、サンデーサイレンスとは違って、日本に買われてやって来たそのときからマリー病を患い、種牡馬としての本業を果たすのもかなりの困難であった。その彼が最後の命を削って残したのだから、という未練にも似た気持ちは無くはなかったが、情で買えるほど株は安くないし、たまたま見た子供達は残念ながら父とは姿形があまり似ていなかったために、株を持つ機会はなく終わってしまった。

 さて、サンデーの最終世代。父に似た黒い馬体に白ソックスの子もいるが、写真をざっとながめて気になったのは2頭の牡馬。1頭はディープインパクトの下で、名はオンファイア。そして最も期待するのはニルヴァーナ。彼の全兄にゴールドアリュールがいる。いずれも鹿毛で、まだ幼いこともあって優しい表情をしており、激しい気性の兄弟がいるとは想像もつかないが、話題のディープインパクトもどちらかというと穏やかな性格の馬だというから、何とかと紙一重、系のサンデー産駒でなくても、能力は十分に伝わっているということなのだろう。

 まずは無事のデビューを待つばかりだが、最近の馬達はネーミングも振るっていて、それで成績が決まるのではないにしても、やはり夢が広がるというものだ。さらにもう1頭あげるとすれば、母ロゼカラーのテューダーローズ。品があって美しい馬体が目を引く。今年はクロフネの子供達がデビューする年でもあり、その意味では私にとって久しぶりに楽しみなシーズンになる。勝っても負けても悲喜交々であり、ファンの欲目で父と同じような走りを期待するのは酷としても、何頭かは長い目で追いかけてみようと思う。風切るたてがみに夢を乗せて。 
よもやま | - | - | author : miss key
スローライフは料理から
 恥ずかしい話だが、一人暮らしを始めるまでは、私は料理というものにおよそ無関心であった。食べるものは適当で良かったし、家族と暮らしていると大抵何かの余り物があったりするから、料理ができなくてそう困ることもない。

 スローライフは、元々スローフード運動というイタリアの片田舎で始まった伝統的な食材と食文化維持のためのNPO運動に端を発している。何でもファーストフードのチェーン店進出に危機感を抱いて始まったとのこと。私自身、自分に関係なくどんどん変わる環境についていけず、生活の有り様を変えていく必要性を痛感させられた。思い切って生活の根本から考え直すこと―すなわちまず手を付けるは「食」であると思い至ったわけである。

 親元を離れて20年近く経つから最低限の食事は作れるが、たまにボルシチなどをお客さんに出して、多分の気遣いを頂きつつ褒められたりするものだから、調子に乗って、少しはやってみようかと重い腰が上がり始めた、というのが実勢に近いかも知れない。

 鬱陶しいと思っていた料理だが、やってみれば意外に楽しいものだとわかってきた。食材集めは相変わらず怠い作業だが、台所に立ってあれこれ考え始めると、結構体が動くものだ。美味しいものを作れるかということよりも、仕事や雑事から離れて頭を真っ白にできる時間を日々強制的に作り出す、今の私にとって料理とはそんな感じに近い。

 それでも、だんだんと味や見た目、メニューの幅に欲が出てくるから人間とは不思議なもので、ここ2週間はパスタを使った料理をいろいろとやってみたりした。パスタはバリエーションが豊富な割には、一定の時間で作業が完結するものが多いので、時間の少ないOLにはピッタリである。残り物の食材を使って一工夫し易いというのも私のような初心者向きだ。

 そんなところに、これ以上ないタイミングで二人の友人からデロンギのオーブンを頂いた。シンプルなデザインと必要充分な機能を持ったそのモデルは料理好きの主婦の間でも人気があり、私も前から欲しいと思っていたのだが、元々貧乏性ゆえ、まあ私には贅沢なものだと思い、ついぞ購入することはなかった。そのオーブンが今は目の前に堂々と存在し、さあがんばれよと私にエールを送っているかのようだ(笑)。否、何より嬉しかったのは贈ってくださったお二人のお心遣いである。

 スローライフは食から。生活の質に目を向けて、今の自分に得ることのできる精一杯の空間に住まいを移し、自分なりにはじめた小さな取り組み。継続は力なり、というのはどこかの予備校の宣伝文句のようだが、毎日できることをそれなりに続けていけば何かいい事があるのでは、とささやかな期待を持ちつつ、気楽にやってみようと思っている。件のお二人に美味しいものをごちそうできる日はいつになるか分からないが、身近な目標があるということがこんなに人の気持ちを明るくするものかと驚きもしている。春は新しい事を始めるに相応しい季節、肩肘張らず自分なりの食を愉しんでいきたい。
よもやま | - | - | author : miss key
リニューアル
 しばらくネット環境から離れていると、日頃はあまり考える余裕のないことまであれこれ考えてみたりできました。
 
 書きたいこと、というのは日々の生活の中でことのほかいろいろあって、これまでの形式からもう少し広い枠組みの中で書き留めてみたいと思います。
 
 過去ログについていろいろと感想をいただけたりもするので、ログはサイトの中に置く予定です。(工事中です)

 3年ほどの間に、こんなものでも読んでくださる方が随分と増えて、そのことだけでも日々どれだけ励みになったか想像もつきません。

 同年代の例に漏れず、なかなか落ち着いて一人考える時間もなくなってきているが、意識して時間を生み出すきっかけという意味でも、何かを書き付けよう、そう改めて思った次第です。

 更新はどうしたのですか?とのお問い合わせをいただき、なかなかお返事もできないでいましたが、ぼちぼち更新していきたいと思っています。
よもやま | - | - | author : miss key
ラスト・ランデヴー ― Love Song -- Chet Baker
 すっかり住み慣れたこの部屋ともとうとうお別れ。音楽を聴けない生活はあり得ないから、オーディオだけは最後まで梱包せずにいたが、この部屋で音楽を聴くのはとうとう今夜限りとなった。ソフトの大半はもう既に箱の中なので、選択肢は限られているのだが、何を最後に聴こうと思ったら瞬間的にこれと思い浮かんだのがChetのLove Songだった。

 つまらない理由からChetの来日時にライブにいけなくて大後悔したことの反動で、手に入る範囲のソフトは出来る限り手元に集めたが、ブートや一部ファンの自主制作盤なども入り乱れてコンプリートは非常に困難なので、せめて好きなナンバーの演奏だけでもと思い、せっせと情報収集しては一喜一憂するこの数年だった。

 風呂の窓から銭湯の煙突が見える、というのが気に入って、この部屋に越して来てあっという間の3年間。思えば、音楽を聴かない日なんてただの1日もなかった。この日記を書き出したのも、転居して落ち着いたので何か始めようということだったし、自分自身が楽になれる過ごし方をいくつも見つける事のできた貴重な時間だったと思う。

 今日のアルバムに収められた曲の中で、特にI'm a fool to want youとAngel eyesがお気に入りで、オーディオも全てこの2曲をかならず聴いてから選んだものだ。Chetが私のためだけにI'm a fool...を歌ってくれたらもういつ死んでもかまわない、と思うくらい好きなのだが、彼はどんなに望んでも手の届かない彼岸の花なので、残念ながらそれはかなわぬ夢である。

 今の部屋は、例えば、陽の光を全身に感じることのできる明るい空間であった。これは都心の住宅事情からするとかなり恵まれた条件だと思う。今度は、どちらかというと光よりは風の良く通る部屋なので、それなりに快適に過ごせるのではと期待している。当分は荷物の片付けに追われて音楽をゆっくり楽しむどころではないかも知れないが、また新たに生活を作り直す楽しみを得たと思い、のんびりやろうと考えている。Love Songはそんな私にとって、転居先での第1曲目を何にしようか悩みつつ、Chetの歌と演奏に酔いしれる最後の夜に相応しい1枚である。
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桜のない誕生日も ― Live at Montmartre -- Stan Getz Quartet feat. Niels-Henning 〓rsted Pedersen
 今年も無事に誕生日を迎える事ができた。このぐらいの歳になると、誕生日なんてうれしくない、そんなことを口にする人もいるけれど、私はいくつになっても誕生日は素直にうれしいものだと思う。

 特にこの1年間は、例えば長いトンネルを抜けそうで抜けきれないもどかしさがあって、早く過ぎてくれないかな、というのが正直なところであった。30代の後半なんて、もっとじっくり物事に取り組めて充実しそうなものだが、気力に体力がついていけなくて、もどかしさという言葉以上にぴったりなものが見つからない。生活のスタイルを根本的に切り替えることを求められている、そんな気さえした。

 あるいは、昔から読み親しんだ詩人の多くが、なぜか38で亡くなっている人が多くて、私にはこの歳が随分と特別なものに感じられてならなかった。私は別に作家でも詩人でもないから、例えば中原中也よりたくさん生きた、という事実をもって何か意味するものではない。巧く言えないが、「もうこんなに長く生きてしまった」みたいな、驚きや人生への不信感、あるいはそんな気持ちを持ってしまう自分のおこがましさなど、根拠はさしてないものの私の中では決して無視できない思いがごちゃごちゃと混ざり合って、心持ちは決して落ち着くことがなかった。他人が聞けば一笑に付される話ではあるのだけれど。

 今日、車窓から見た千鳥ヶ淵には人出の割には肝心の桜が間に合わずといった感じであったが、いつもなら私の誕生日には大抵開花しているから、こんな年も珍しい。同じ子供を産むならお花のたくさんある季節に、と母は口癖のように言うが、おめでたい、とまではいかなくても、新たなスタートを切るにふさわしい季節なので、そういう気遣いをありがたいとつくづく思ったりもする。ひょっとして誕生日というのは、何年生きたかということよりも、生まれたという事実に改めて思いを馳せるという意味で、大切な区切りであるのかも知れない。

 スタン・ゲッツはチェットと同様、小さい頃から慣れ親しんでいるアーティストだが、彼の演奏を聴くとどこかほっとできる。昔通ったしゃんくれーるでリクエストするのも、とりあえず1曲目はゲッツという具合で、聴いてきたボリュームでは最も多いかも知れない。今日、帰りがけに覗いたJAROで、モンマルトルカフェでのライブ盤が顔を覗かせていたので、すかさずゲットしたのが今日のBGM。CDと比べると入っている曲数も少なくて、例えばコン・アルマなどはCDのボーナス扱いなので残念なのだが、いざレコードに針を落としてみると、そんなことはどうでも良くなってしまう。

 このライブは77年2月のもので、ゲッツの演奏の充実もさることながら、ニールス・ペデルセンのベースが伸びやかで心地よく、思わず笑みが出る。ゴリゴリといかにもJAZZというベースでは決してないが、ゲッツのテナーにとても合うように思う。今日のアルバムは、アナログでも重量盤で再発されていて、今も普通に手に入る。ただ、先ほどのコン・アルマの演奏もすばらしいので、CDも捨てがたい(笑)。それにしてもゲッツのテナーは、なぜにこんなにも穏やかな音色なのだろう。静かに過ごしたい夜にとっておきの1枚、慌ただしいこの時期にこそぜひお勧めしたいアルバムである。
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