音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
数えてみたら
 小さい頃から地図を見るのが苦手だった。それはベストセラーになった「地図の読めない女・・・」ではないが、もともと酷い方向音痴であり、それ以前に右左がよく分からなくなるという、普通の方からすれば想像のつかないほどである。そんな私にとって地図は荷物にこそなれ、役立ったことなど一つもなかった。

 それが、ネットでMapionなどの地図サイトを覘いているうちに、行ったことのない土地の地図を見るのが楽しくなり、適当な地名を入れては地図を「開いて」息抜きをしている。或は自分が住んでいたことのある土地を見て、周囲がどんな風に変わったのかを見てみたり。

 引越回数を勘定してみたら、上京して以降、今の住処がなんと12カ所目であった。私は引越マニアではないが、平均すれば2年と同じところに住んでいないことになる。もっとも同じエリアで数回引越をすることも多く、エリアとしては4カ所くらいになるだろうか。

 今の部屋は一番広く、モノも比較的少ないので、人間らしい生活空間を何とか維持できているが、学生時代の部屋はとにかく狭くてモノが多く、寝る場所にも苦労した。ただ、気管支炎を持っている私にとってカビは大敵なので、日当たりや風通しは良い部屋がほとんどであり、条件の割には家賃が安くて大家さんにも恵まれていたように思う。

 一番長く住んだ世田谷の某所は、環境としては最も恵まれた土地だったし、私の大好きな銭湯もあれば、美味しいベーカリーや餃子屋もたくさんあって、離れるのは惜しかったが、治安が悪くなり、夜安心して眠れなくなったこともあって転居したのだった。

 その部屋には毎朝毎夕、カラスが遊びに来て、私はベランダ越しに彼が来てくれるのをいつも楽しみにしていた。引越の当日もやって来て、お土産のビールの王冠を投げていったが―なぜかいつもガラスのかけらや王冠といった小物をお土産にベランダに投げ入れるのが習慣になっていた―、もう会えないと思うと悲しくなった。

 そこで過ごした7年間は、ロシア語の学校に通ったり、あるいはモスクワに何度も出かけたりと最もロシアンフリークな生活を満喫していた時期である。思えば、残業を一切断っての通学だったので、よくクビにならなかったものだと思う。まあ、同期よりはうんと肩書きが付くのも遅いのだが、語学は一生の宝物なので、そのことに関しては何の悔いもない。

 地図の上だけで見ているのはつまらないから、今度、住んだ順に訪ねて歩いてみようかと思う。上京して初めて住んだアパートが残っていたら感動ものだろうなあ。地図上はまだそれとおぼしき建物が残っているので期待できそうである。夏の暑い日にわざわざすることでもないが、太り気味なので体を絞るのにはちょうど良さそうである。天気の良い休日にぜひ出かけることにしよう。
よもやま | - | - | author : miss key
人口のこぶ
 人口減少と経済に関する研究で著名な研究者の方から興味深い講義をいただく機会があった。長く書店で平積みの話題書となっていた「『人口減少経済』の新しい公式」の松谷明彦氏である。

 氏の講義は歯切れよく、実に明快で、例えば首都圏の将来像を占うにあたり、「今後の日本経済は労働力の急激な縮小によって右肩下がりの縮小に向かうが、『少子化対策』や外国人労働力の活用によっても、その方向を変えることはできない」と分析する。

 人口減少に関しては、首都圏においては緩やかに進むと予測されているが、高齢化の進展については逆に地方よりも首都圏の方が顕著である。その理由は、団塊の世代のボリュームがひときわ大きく、数年後にはこの人口のこぶが高齢化ゾーンに突入し、一気に高齢化が進むからだ。資料として示されたのはシンプルな折れ線グラフ1枚であったが、シンプルなだけに説得力があった。

 高齢者や女性の就業支援による労働力不足の補填や、少子化対策など、日々新聞雑誌にいろいろな言葉が踊ってはいるものの、それら相当の努力と工夫を持ってしても、経済縮小は避けられない事実として受け入れていくしかない、その中で何ができて、何をしていくべきなのかを整理しなくてはいけないということを、今回の講義で理解することができた。それだけ人口のこぶ、人口構成上のいびつさがいろいろな問題の根っこにしっかりと座っているということなのだ。

 何事もすべからく自然のあるがままがよい、とまでは言わないが、とどのつまり、過去、政策的に産児制限したり、あるいはその反動によって、人口構成に大きな山と谷ができてしまう。人為的に人口を操作した結果、その影響は50年経過して顕在化し、さらにその後数十年に渡って次世代にツケを払わせることになるということであり、その負担は実に重い。

 日頃不勉強なだけに、今日聴いた内容はどれも衝撃的であったが、素人なりの感想として、人口構造が生み出す社会問題に対して、対処療法的に手を施したとしても、さらに副作用を生んで問題をややこしくしていくような気がした。次世代への負担の先送りはもちろんのこと、今いる人々の暮らしを考えたとき、国や企業が何かしてくれるのを待つのではなく、環境や経済状況の変化に対して、自らライフスタイルを見直し、ささやかであっても豊かさを実現しようと努力することの方が、人生をエンジョイすることの近道になるのではないか。子供を持たない私にとって、非常に重い内容ではあったが、いずれにせよ、示唆に富んだすばらしい講義だった。
よもやま | - | - | author : miss key
Лирическая (リリーチェスカヤ)
 折角の日曜をぼんやりと無為に過ごしてしまった。先日、ヴィソツキィーのトリビュートアルバムのことを書いたが、その3曲目に収められている「リリーチェスカヤ」という曲を、グリゴーリィで聴いたり、チーシュの歌で聴き直したりしていたら、すっかり感傷的になり、何をということなく考え込んでしまった。もっともそういう歌の文句なので、それを延々と聴いた自分が悪いのだけれども。

 同じ曲でも、グリゴーリィは本家の持ち味をなるべく崩さずに、ドラマチカルに歌い上げているが、チーシュは、歌詞の一言、ひとことを噛み締めるようにして歌う。本当にしみじみと心の底からこみ上げてくるような歌とギターの音色。

 以前、家に遊びにいらしたお客にチーシュのこの歌を聴かせたら、「ギターが下手だ」というような感想を漏らされた。演奏の巧拙が先に来るなんてうちの再生が余程良くないのだろうと反省しつつ、その歌心が伝わらなかったことをとても残念に思ったものだ。確か季節は秋。晩秋にぴったりの選曲のはずだったのだが(苦笑)。


  Твой мир колдунами на тысячи лет
  Укрыт от меня и от света, -
  И думаешь, ты, что прекраснее нет,
  Чем лес заколдованный этот.
  ・・・
          君の世界は魔法使いによって千年もの間、
          僕と光とから隠されている。
          ― 君は思っているのでしょう、
          この魔法にかけられた森よりも素晴らしいところなんて存在しないと。



  В какой день недели, в котором часу
  Ты выйдешь ко мне осторожно,
  Когда я тебя на руках унесу
  Туда, где найти невозможно?
  ・・・
          何曜日の何時に
          君は注意深く僕の前に出てくるのだろう。
          いつ、僕は君をこの両の手で運び去るだろう、
          決して見つけ出すことの出来ないところへと。                     
                        from "Лирическая"



 それにしても、アブラゼミが鳴きだすほどうだるような暑さに、体を横にしても縦にしても怠くてどうしようもない。記録によると、6月中にアブラゼミが鳴いたのは初めてのことだとか。それはそうだろう、蝉なんて鳴くか飛ぶかしていないとあっという間に寿命が尽きてしまうのだから、梅雨時には普通なら明るい世界に出てこないだろうに。

 歌の文句も蝉の話題も、なんもかんも物悲しくて、梅雨の蒸し暑さというのは本当に嫌なものだ。早くさっぱりした季節が来ないかとただひたすらに梅雨明けの日を待ち望む。鬱な気持ちというのは、ひょっとしてこういうものを言うのだろうか。髪でも切って気分を変えたい、そんな気怠い休日だった。
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写真展の楽しさ
 2週続けて知人の作品をギャラリーで楽しむことができた。先週は、長くモノクロで東京を撮りつづけているSilenceと題された彼にとって初の個展。そして今日は、Digital Picnicというグループ展で、タイトルから想像できる通り、デジカメで撮られた作品集である。

 一人一人の作品をまとめて見せていただける場というのは、あるようであまりなく、また思い思いのサイズに伸ばされたプリントは、サイトなどで貼られた画像とは比べ物にならないほど説得力を持って観る者に迫る。一人の作品を数多く見せていただける楽しみは、撮影者のキャラクターがより感じられ易いということ、そして今日のようなグル−プ展になると、各々の個性がより際立って、眺めているだけで楽しくなってしまう。

 声をかけてくださった方の作品群は、何気ない生活の一コマであったり、あるいは友人を招いてのパーティの場であったりと、撮影者の自然体がそのまま絵になっていてどの作品も和みを与えてくれる。構図は撮りたいものをずばっと正面からとらえていて作為的ではない反面、色味の、特に赤をうまく配色した構成は、あまり意識的にやっていないこととしても、とても参考になった。白の割合やグレーの出方は私自身も気にする方だが、カラーで撮っている割にはカラーの強みを絵に活かし切れておらず、プリントしてからため息の連続だったりする。

 色の置き方を絵全体で掴む力は、練習してどうにかなるものではなく、天性のものが大きいのだろうから、私はつい構図で何とかごまかそうとして失敗することが多いのだが、写真はやはり光とその結果としての色なのだろうから、今日多くの作品を見せていただいて思うところがたくさんあった。

 またせめて、ネガが痛まないうちに気に入ったカットは伸ばしておこうかなと思った。写真は確かにその一瞬を永遠にとどめるけれども、データとして半永久的に保存するのは意外に大変だ。ジアゾが出ないうちに(笑)せいぜいこの夏の間にネガを整理しよう。目の前に宿題ばかりが溜まっていく、蒸せる梅雨の午後であった。
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Чорчовон(チョルチャヴォン)
 モスクワで話題になっていた黒衣の女性ボーカル、NATO。気にはなっていたが、曲を聴く機会がなくてどんなアーティストなのかよくわからずにいた。それが先日ようやく届いたCDを聴いた途端、目眩がした。まるで頭を横殴りされたような・・・。

 歌うのはナターリャ・シェブリャコワ。グルジア出身で、グルジア語だけでなく、タジク語やファルシ語で歌っている。メロディは重く哀しげで、イスラムチックだし、そもそも最初は何語で歌っているのかさっぱりわからず戸惑ったが、ロシアのものにしては珍しく歌詞がロシア語訳で載せられていて、脇に何語で歌っているのかきちんと表記されていた。さすがにロシア国内でもタジク語を理解する人は少ないのだろう。


 Чорчовон(4人の若者)

  4人の若者が銃を携え、希望をもって旅に出かけた。
  父は息子たちに、近く危険が迫っているという
  天からの予兆があると警告したが、
  息子たちは聞き入れず、狩りに出かけてしまった。

  雷鳴が響くと、不意に峡谷から息子たちめがけて雪崩が起こり、
  息子たちを飲み込んだ。

  ああ、偉大な、偉大な、偉大な
  神聖なる者が葬式の祈りを捧げる。
  
  母は石に頭を打ちつけながら
  息子たちの死を悼んで泣いている。


 歌の文句はざっとそんな感じである(丁寧な訳ではない)。民謡か何かのように、実際にその地方に伝わる悲劇的物語なのか、全くの創作なのかは記されていないが、衣装や独特の歌い方などの演出もさることながら、歌が始まると同時に無理矢理引きずり込まれてしまうNATOの世界。

 プロデューサーは、t.A.T.uと同じ人物で、大衆が歌に何を望んでいるのか、ツボを突くのが巧いのか、単にキャッチーな売り方がまたしても当たったのかはわからないし、そのどちらも当てはまるのかもしれない。NATOのアルバムには9曲が収められていて、曲調はどれも似通っているから聴き飽きそうなものなのだが、前にも書いた通り何故かこのしつこさが心地よい。不思議なくらいに。

 黒布からのぞく瞳から想像して、おそらくとても美しい女性なのだろうと思うが、声はその顔から想像しづらいキャラクターで、しかもどの曲もエフェクトが多用されていて、本当の声が分からないほどゆがめた曲もある。

 いずれの曲もNATOのオフィシャルサイトで聴くことができ、非常に重くて勧めにくいが、ビデオクリップもダウンロードできるので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。

 日頃ロシアンポップスを聴かない人が彼女の歌を聴いて、一体どんな感想を持つのかに興味がわく。或は彼女がタトゥのような売り方をされて終わりになってしまうのか、その次があるのか、どうか。先の見えない不安と社会的緊張と―いずれにせよ、現代ロシアの人々の琴線に触れる深い何かを彼女が持っていることには間違い無さそうである。
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癖になる
 「ウゴウゴルーガ」という番組をご存知だろうか。90年代前半に放映された子供向けTV番組である。たまたま朝早く起きてTVをつけたら、偶然にやっていたのだが、「お・き・ら・く・ご・く・ら・く!」と叫ぶ子供の声に、私は訳も分からずノックアウトされた。

 こんな時間に一体誰がこんな番組を見ているんだろうと思ったら、子供だけでなく大人にも人気があって、すでにいろいろなところで話題になっていた。私は流行に疎いので、例えばジュゲムの暗唱が幼稚園児に大流行、といったことも知らずにいたが、当時ウゴウゴ〜には夢中になった。どこが面白いかを人にうまく説明はできないのに、あの番組には見ずにおけない習慣性のようなものが一杯に詰まっていた。

 同様の癖になる成分を、グリュコーザの歌にも感じている。ちょうど今、彼らの2枚目のアルバム、モスクワNo.2を聴いているが、シングルカットのスニェーク・イジョートを始め、一度聴いたら耳から離れない独特の音楽。どのくらい癖になるかって、例えば料理をしながら無意識に鼻歌してしまうようなしつこさなのである。

 ボーカルのナターシャは、1stアルバムの成功後、改めて音楽学校に通い始めた変わり種で、その成果なのかどうかは分からないが、今回のアルバムはとてもうまくまとまっている。ロシア版紅白歌合戦で、ただ者ではない風格を漂わせて堂々と歌う彼女に、キャッチーなアニメと謎めいたユニット、グリュコーザのイメージとはまた別な魅力を感じていたことも事実。それにしても・・・。

 「癖になる系」が大流行なのか、NATOとかCTACとか、04年後半からかなり動きのあるロシアンポップスシーン。音楽の中身だけでなく、売り方そのものが随分と過激なものもあって、70年代のエストラードナヤファンにはちょっとついて行けない感がある。一時期の閉塞感がまるで嘘のようだが、まあ面白いことには違いない。蜂蜜を頭から浴びるようなしつこさに辟易するのにまだ聴きたい、グリュコーザには本当に困ったものである。
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Парус(パルス)
 久しぶりにグリゴーリィ・レプスのアルバム、Парусを聴いた。このアルバムは、ヴィソツキィーのトリビュートになっていて、歌詞もメロディもみな重たく、買った当初は胸が一杯になってしまってあまり何度も聴くことができなかった。

 ロシアのアーティストの多くにとって、おそらくヴィソツキィーは神様のような存在であり、グリゴーリィにとっても、彼の歌い方からしておそらく憧れの存在であったろう。地方のレストランで働くごく普通のウエイターだった彼が、音楽関係者に見いだされ、数年のうちに成功を収めた。その記念碑的アルバムがПарусであり、その発売を記念して開かれたコンサートは、舞台も衣装も極めてシンプルで、グリゴーリィの姿勢とヴィソツキィーへの尊敬がそのままステージに表現された魅力的なもの。ちなみに国内ではDVDも発売されているが、まだ海外盤は出ておらず、今後のリリースが期待されるところである。

 ヴィソツキィーの歌というと、酒でも呑みながらでないと聴けないというか、素面で聴いているとヒリヒリするような文句の歌が多く、歌唱そのものも激しいので、大御所と言えども手元にはせいぜいベスト盤ぐらいしか置いていない。改めてグリゴーリィの歌でヴィソツキィーを聴いてみて感じたのは、ヴィソツキィーというのは大変な歌い手であったということ。感情を前面に押し出した歌い方だと一本調子でつまらなくなってしまうし、歌というよりは語る、或は言葉を吐き出すような調子でもともと歌詞をメロディに乗せるのが大変。とにかく曲の歌いこなしそのものが難しいのだということを、Парусを通して痛感した。

 思えば、かつてテレビのロシア語講座などで紹介されるロシアのアーティストというと、アーラ・プガチョーワ、ブラート・オグジャワ、そして今日のウラジーミル・ヴィソツキィーぐらいのものだった。今はストリーミングに通信販売によるCDの入手など、様々なロシアのアーティストの音楽を楽しむことができる。その意味では本当にいい時代になったものだとしみじみする。つい手を抜きがちなサイトの更新であるが、少しでもロシアの音楽に興味を持ってくださった方に役に立つ情報を載せていくべきだとも思う。出来る範囲でこつこつ充実させていきたいと改めて思った。
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過ぎたるは及ばざるがごとし
 何事もやり過ぎは禁物ということなのだろうか。先日、知り合いのご好意でKharmaのインターコネクトをお借りでき、早速、Pre-Power間で試してみたのだが、見事に音のバランスが崩れ、缶コーヒーを飲んだ時に喉に残るしつこさのようなものが耳についた。

 Kharmaのケーブルをそこここに使っている私は、銀線のもつ癖が好きでわざわざバランスのよいLINNと交換してまで使っているが、エージング不足による抜けの悪さという点を割り引いても、やはり結果はいただけなかった。残念。

 最近、audioに力を入れている知人とよく話すのは、「ここまで大げさにしなくても良かったかも」ということ。確かに音楽を聴くのに自分にとってこれ以上はないほど充実しているが、もっとシンプルでも良かったかなと感じることが少なくない。

 生活を簡素にしてやり直すことをはじめてみると、前は大げさに感じなかったものが、やけに目についてしまう。機器はどれもとても気に入っているから処分するつもりは全くないし愛着もあるが、生活の有り様として、どうも座りが悪いということだ。

 仕事も趣味も、一度きちんと整理する時期が来ていると感じている。体を壊したり、心を病んだりとまさにバランスを崩している同年代に囲まれて、私自身、どうしようもない孤独感に襲われることがある。寂しさ、ではなく、結局人間は一人なのだから、自分がしっかりしないと、という意味で。何をどうするのも自分次第。改めて自分に言い聞かせる夜である。
よもやま | - | - | author : miss key
タイーシャの歌を聴き込む
 タイーシャ・ポバリーの最新アルバム”Серденько”は、ウクライナ国内では2004年にリリースされていたのだが、なかなか国外で手に入らず、今年になってようやく手にすることができた、待ちに待った新譜だ。彼女のサイトで曲のさわりは試聴できていたので、余計に聴きたくてうずうずしていた。特に表題曲のСерденько(心)。





 全10曲のうち8曲はポピュラーアレンジで、うち数曲はクラブ系のノリ・・・タイーシャにはちょっと合わないがそれでも歌いこなしているのはさすが。でも「(流行に合わせるなんて)そんな必要ないのに」とか勝手に思ったりしてしまう。

 もともと民謡を得意とする彼女だから、その歌唱力を存分に活かした歌を歌って欲しいのだが、ウクライナ国内でも最近はみな海外のアーティストを聴いて楽しむ人が多いようなので、致し方ないのかも知れない。ちなみに国内の最近の人気投票では、アニ・ロラク、ルスラナなどアイドル系の女性ボーカルが上位を占め、タイーシャは第6位。

 それでもシンプルなピアノ演奏をバックに歌う最後の2曲、Доля(運命)とГорлиця(愛しい人)はさすが!と納得の素晴らしさ。売れ筋とは別に、これぞエストラードナヤと思わずにいられない歌を用意しているのが何とも彼女らしい。打ち込みのバックではなくフルオーケストラの演奏で歌う彼女を、いつかライブで観たいと思う。ウクライナの状況はまだまだ不安定なようで、音楽を聴きに気軽に出かけられる様子ではないが、隣国の騒動に巻き込まれることなく、早く平和を取り戻して欲しいと思っているのは私だけではないだろう。

 そう遠くないうちにキエフとチェルニゴフへの再訪を果たし、アストラハンへの旅を実現させたいと思う。それまでは当分の間、彼女の歌を子守唄に夢の中で川下りを楽しむことにしよう。
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アブラムシ大発生
 昨年から今年にかけての暖冬のせいで、アブラムシが大量に発生しているという。新聞で読んではいたが、家の周りの植物にはそれほど見かけず、他所の話だと思っていたら、とんでもなかった。都心を少し外れたここ某所でも大発生していた。

 気がついたのは、駅に向かって走り込み、ばさついた髪を手櫛で直そうとした時のこと。走っている最中に髪の毛に巻き込まれたらしく、指にいくつもアブラムシがくっついてきた。最初は何の虫かと思わず凝視したが、間違いなくアブラムシだった。しかも羽が付いている!

 田舎で見慣れていたアブラムシは、緑色の半透明のボディで羽はなかった。自分の記憶違いかと思って調べてみたら、なんと周囲に食べるものがなくなると、羽の付いたアブラムシが生まれるようになり、風に乗って新天地に飛び散っていくのだそうだ。自然の不思議とはこのことか。

 虫の大発生というと、イナゴやバッタの類いが有名だが、彼らも大発生時は通常の種とは異なる―体が黒くなったり大きくなったりして本来の姿とは見た目も変わって大群をなし、それこそぺんぺん草も生えないほどに通った道を食い尽くす。日本ではあまり聞かない話だが、海外ではそれほど珍しい話でもない。

 種としての危機管理が、あらかじめDNAに織り込み済みということなのか。特に体の小さな虫たちの生き延びるという知恵にはひれ伏さずにいられない。それに引き換え、いつまでたっても殺し合いばかりしているヒトの如何に愚かなことか。

 それにしてもアブラムシ。そういえば彼らの天敵であるテントウ虫はここ東京ではほとんど見かけない。私の田舎には今でもいくらだっているし、彼らの背に描かれた様々な図柄を見ているだけでも随分楽しいものだ。テントウ虫が幸せを運んでくるかどうかは知らないが、小さな虫達の起こした出来事に、世の中、何でもバランスが大切だとつくづく考えさせられた。
よもやま | - | - | author : miss key