最も恋い焦がれる | 2005.07.25 Monday |
私は素直な人に惹かれたことがただの一度もない。何故だろうと自分で考え込むこともあるけれど、凡そ一筋縄ではいかない性格の人が多い。そういう人が時折見せるほんとの気持ちのようなものに触れて、人としての温かみをより意識してしまうからなのかも知れないが、そういう、理解にエネルギーを要する相手に惹かれるのはあまり得策ではないと思いつつ、自然とそうなってしまう。
今、最も恋い焦がれる人は、文芸批評家の福田和也氏である。氏の著作はもう随分前から手にしていて、あまりの難解さ―もともと批評の対象となっている文学作品にこれまで親しんでいない類いのものが多い―に、身も心も降参してしまうのだが、彼の書くものほど、言葉に飢えた私にとって、日本語の持つ強さやその奥にそっと秘められた美しさを嫌というほど感じさせてくれるものもない。
それが明治や大正、あるいは百歩譲って昭和初期の作家というのならまだしも、バブルはじけて日本人が情けなくなったと言われてから以降の人であり、師事していたのが自死を選んだ江藤淳というから、不勉強な私にはそれもまた意外性の要素になっている。否、遺した言葉の「形骸を断ずる」という一言に、何か通じるものが感じられはするけれども。
福田和也という人は、保守派の批評家として、独特の「こわいものなし」のスタンスがある種見せ物的に騒がれたりするけれども、依って立つところの確かさは、その批評の対象を純文学から歴史、政治、そして現代のサブカルチャーにまで難なく広げてしまう。何を論じてもぶれることのないという安心感が、文章の難しさとの間に生む落差。格調の高さなどという表現が逃げ出してしまいそうなほど、想像や推測を許さないストレートな書きぶりは、厳格なまでに読み手に迫る。彼の紡ぐ文が放つ説得力は、まるで突然雷に打たれるかのように避けることのできない強引さでもって、それを読むこと自体が快楽となる。
巷で話題になっている菊地成孔という人のことを、私は実はよく知らないでいるが、彼の講義をモグって聴きたいというファンの心理よろしく、私は福田氏の講義に何とか潜れないものかと思案するのも愉しい。本当に、氏の生声でもって、何の作品でもいい、その解説を自分の耳で聴いてみたいと思う。批評家に恋するのはおかしな話だが、恋い焦がれて止まない強い存在に、ばっさりと切って捨てられたいという自滅願望にも似た思いに、我ながら呆れてもいる。
氏の書くものは難しいものが多くて、肥やしにしては強すぎて私は身も心も枯れ果ててしまうのかも知れないが、それでもやっぱり読むことを諦められない。私はやはり、一筋縄ではいかない人が好きなのだ。物事をこれと納得させてくれる、ある種の強引さに男性を強く感じる自分がいる。文芸評論に男性を感じるというのは、自分で思ってみても随分おかしな話だけれども、仕方ない。思い焦がれるとは、そもそも理不尽なことなのだから。
今、最も恋い焦がれる人は、文芸批評家の福田和也氏である。氏の著作はもう随分前から手にしていて、あまりの難解さ―もともと批評の対象となっている文学作品にこれまで親しんでいない類いのものが多い―に、身も心も降参してしまうのだが、彼の書くものほど、言葉に飢えた私にとって、日本語の持つ強さやその奥にそっと秘められた美しさを嫌というほど感じさせてくれるものもない。
それが明治や大正、あるいは百歩譲って昭和初期の作家というのならまだしも、バブルはじけて日本人が情けなくなったと言われてから以降の人であり、師事していたのが自死を選んだ江藤淳というから、不勉強な私にはそれもまた意外性の要素になっている。否、遺した言葉の「形骸を断ずる」という一言に、何か通じるものが感じられはするけれども。
福田和也という人は、保守派の批評家として、独特の「こわいものなし」のスタンスがある種見せ物的に騒がれたりするけれども、依って立つところの確かさは、その批評の対象を純文学から歴史、政治、そして現代のサブカルチャーにまで難なく広げてしまう。何を論じてもぶれることのないという安心感が、文章の難しさとの間に生む落差。格調の高さなどという表現が逃げ出してしまいそうなほど、想像や推測を許さないストレートな書きぶりは、厳格なまでに読み手に迫る。彼の紡ぐ文が放つ説得力は、まるで突然雷に打たれるかのように避けることのできない強引さでもって、それを読むこと自体が快楽となる。
巷で話題になっている菊地成孔という人のことを、私は実はよく知らないでいるが、彼の講義をモグって聴きたいというファンの心理よろしく、私は福田氏の講義に何とか潜れないものかと思案するのも愉しい。本当に、氏の生声でもって、何の作品でもいい、その解説を自分の耳で聴いてみたいと思う。批評家に恋するのはおかしな話だが、恋い焦がれて止まない強い存在に、ばっさりと切って捨てられたいという自滅願望にも似た思いに、我ながら呆れてもいる。
氏の書くものは難しいものが多くて、肥やしにしては強すぎて私は身も心も枯れ果ててしまうのかも知れないが、それでもやっぱり読むことを諦められない。私はやはり、一筋縄ではいかない人が好きなのだ。物事をこれと納得させてくれる、ある種の強引さに男性を強く感じる自分がいる。文芸評論に男性を感じるというのは、自分で思ってみても随分おかしな話だけれども、仕方ない。思い焦がれるとは、そもそも理不尽なことなのだから。