音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
最も恋い焦がれる
 私は素直な人に惹かれたことがただの一度もない。何故だろうと自分で考え込むこともあるけれど、凡そ一筋縄ではいかない性格の人が多い。そういう人が時折見せるほんとの気持ちのようなものに触れて、人としての温かみをより意識してしまうからなのかも知れないが、そういう、理解にエネルギーを要する相手に惹かれるのはあまり得策ではないと思いつつ、自然とそうなってしまう。

 今、最も恋い焦がれる人は、文芸批評家の福田和也氏である。氏の著作はもう随分前から手にしていて、あまりの難解さ―もともと批評の対象となっている文学作品にこれまで親しんでいない類いのものが多い―に、身も心も降参してしまうのだが、彼の書くものほど、言葉に飢えた私にとって、日本語の持つ強さやその奥にそっと秘められた美しさを嫌というほど感じさせてくれるものもない。

 それが明治や大正、あるいは百歩譲って昭和初期の作家というのならまだしも、バブルはじけて日本人が情けなくなったと言われてから以降の人であり、師事していたのが自死を選んだ江藤淳というから、不勉強な私にはそれもまた意外性の要素になっている。否、遺した言葉の「形骸を断ずる」という一言に、何か通じるものが感じられはするけれども。

 福田和也という人は、保守派の批評家として、独特の「こわいものなし」のスタンスがある種見せ物的に騒がれたりするけれども、依って立つところの確かさは、その批評の対象を純文学から歴史、政治、そして現代のサブカルチャーにまで難なく広げてしまう。何を論じてもぶれることのないという安心感が、文章の難しさとの間に生む落差。格調の高さなどという表現が逃げ出してしまいそうなほど、想像や推測を許さないストレートな書きぶりは、厳格なまでに読み手に迫る。彼の紡ぐ文が放つ説得力は、まるで突然雷に打たれるかのように避けることのできない強引さでもって、それを読むこと自体が快楽となる。

 巷で話題になっている菊地成孔という人のことを、私は実はよく知らないでいるが、彼の講義をモグって聴きたいというファンの心理よろしく、私は福田氏の講義に何とか潜れないものかと思案するのも愉しい。本当に、氏の生声でもって、何の作品でもいい、その解説を自分の耳で聴いてみたいと思う。批評家に恋するのはおかしな話だが、恋い焦がれて止まない強い存在に、ばっさりと切って捨てられたいという自滅願望にも似た思いに、我ながら呆れてもいる。

 氏の書くものは難しいものが多くて、肥やしにしては強すぎて私は身も心も枯れ果ててしまうのかも知れないが、それでもやっぱり読むことを諦められない。私はやはり、一筋縄ではいかない人が好きなのだ。物事をこれと納得させてくれる、ある種の強引さに男性を強く感じる自分がいる。文芸評論に男性を感じるというのは、自分で思ってみても随分おかしな話だけれども、仕方ない。思い焦がれるとは、そもそも理不尽なことなのだから。
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地震
 新宿の某百貨店で服など眺めていたら、いきなりガツン!と来た。脚元から頭に向かって突き上げるような震動と、数秒間を置いてゆさゆさと嫌な音を立てての横揺れ。ああ、地震だ。地震だと分かるまでに数十秒かかった私はおめでたい人間である。

 店内では、男性店員が顧客にけがはないかと見回りつつ、慌てないでください、棚などから離れてください、などと客を誘導している。百貨店には社員としての店員と卸などから派遣された人の二種類いるが、こういう時にはとっさの判断と訓練に裏打ちされた無駄の無い行動が、そのいずれかをはっきりさせるようである。私は社員と思しき店員さんたちの、そのてきぱきとした様に感動すらした。店内の地震計によると、震度5だったそうだ。

 いざとなると慌てないものだなと、またおかしなところで自分に感心した。地震が怖くて引越までしたのに―以前の借家は古いマンションで耐震工事もなにもないものだから、大きなトラックが通っただけでよく揺れた。

 私は調子に乗って、暢気に日頃は目にすることの無いブランドもののバッグなどを手に取ったりして夕方まで過ごした。都心の交通機関は地震に弱いから、どうせ今すぐになんて帰れっこないことは自明であったし、秋物の先取りとかで、限定商品がここぞとばかりディスプレイされていた。中でも目を引いたのがマルベリーという英国ブランドのバッグである。

 アンティークなデザインもさることながら、その革の質の良さといったら、固くも柔らかくもない、独特のしなやかさ。ピンクやモカといった明るい色に染めてあるので普段使いには汚れなど少々厳しいかもしれないが、一度はこういうバッグを下げて出かけてみたいものだと思った。ウインドーの前からなかなか離れる気がしなかったのだが、何と価格は15万円超で、私の予算外であった。そんな高価なものなのに、限定モデルはすでに完売しているという。お金はあるところにしっかりとあるという実感が、私の重い足をようやく持ち上げた。

 閉店間際にもなると、鉄道も動きだしていて、私は久しぶりの買い物から無事帰宅できた。地震騒ぎで、最初買おうと思っていた洋服は一つも買わずじまいで、結局ぼんやりとウインドーショッピングに終わってしまった。洋服の買い物は特に苦手で、予算内で誰か適当なのを買ってきてくれないかとはいつも思うことだ。さすがにこんな調子では着る服もなくなってしまうので、来週には何とかしよう。決意表明なしには買い物すらいけない自分のものぐさに呆れる週末であった。
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書店に漂う
 忙しいのを理由に、また本屋から足が遠ざかっていた。春先は意識的に店頭であれこれ本を探してみたが、そういう時に買ったものに限って中身が今ひとつであり、いつのまにかAmazonでつまみ食いのような買い方に戻ってしまった。

 書店に立ち寄ったのは偶然のことで、近く予定されているセミナーのチケットを事前に受け取る用があり、折角だからと同じ建物にある老舗の書店にフラフラと足を向けたのだった。

 ぼんやりと近代詩や文学批評のコーナーを眺めていたら、荒川洋治氏の新作「心理」や話題になっていたシルヴィア・プラスの「湖水を渡って」が並んでおり、私は喜んで中も見ないでレジに持っていった。あるいは、新刊本やエッセイのコーナーでは、不慮の事故で惜しくも亡くなった中島らもの追悼特集本が目に飛び込んできた。家族のインタビューまでも交え、様々な人の思いが文集に託されている。少々安っぽい宝島形式の冊子だが、私はこれをきっと長く大切にして読み楽しむだろう。店頭でぱらぱらと眺めていると、彼が亡くなったことを知ったときの残念さが不意にこみ上げてくるような気がして、これも早々に会計を済ませた。

 今日手に入れたのはわずか5冊であったが、最近は物を探すエネルギーをほぼレコードにつぎ込んでいるので、それでも上々であったかも知れない。残念だったのは、荒川洋治の方は既に第二刷になっていたこと。彼の詩集はだいたい初版で持っている私としては残念というか、日頃のものぐさをつくづく後悔した。思えば、新聞の書評すらろくにあたっていない有様。こういうこともあるから、面倒くさがらずに書店には足を運ばなければならない。反省の一日であった。
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わらび餅を食べる犬
 私の田舎は、梅雨も長く蒸し暑さでは関西一二を争う土地柄であるが、今年は特に雨の量が多く、こんな年には、家族揃って湿気が苦手な我が家は、部屋を一歩も出ることの無い日も少なくない。

 家族、と書いたが、老いた両親が可愛がっている柴犬も例外ではない。彼の雨嫌い、風嫌いは貰われて来た赤ん坊の頃から変わることがなく、おかげで散歩もあまり好きではないと来ているから、それがいいのか悪いのか考えあぐねてしまう。少なくともこれまで飼った歴代の犬たちと比べて、彼は本当に犬らしさに欠けている。

 用心になるからとよく吠える犬を貰って来たはいいものの、子供代わりにと座敷犬にしたものだから、元々の性格もあって、彼はすっかり人間の生活が当たり前のように過ごすようになった。朝は新聞を広げることから始まり、テレビのニュース、特に朝の天気予報は気に入っているようだ。成犬にもなると一日に一度の食事だが、彼は日に三度食べる。食べる量は同じなのだろうが、要するに人間のように、食いだめせず、少しずつ食べるのが当たり前になっている。

 うちの中で座る場所も決まっており、使うざぶとんなども全部自分仕様。帰省する度にそんなエピソードがどんどん増えて、彼もこの5月でとうとう4歳になったが、今年の夏は驚いたことに、わらび餅を喜んで食べるようになったという。

 あの食感は、正直犬好みのものとは思えない。だいたいきな粉のような口にもたつくものは苦手のはずだ。なぜだろうと思って母親にいろいろ尋ねたら、今年の暑さは毛皮の脱げない彼には特に厳しいようで、そうかといって氷ばかり食べるとお腹を壊すので、口に広がるささやかな涼を求めているのではないかという。甘いものを欲しがるのは、夏バテを癒すためだろうと。

 私は電話口で笑いを必死にこらえた。わらび餅の話にはまだ尾ひれがあって、なんでも近所の和菓子屋のではだめで、銀座の某店ブランドのものが時々手に入るようだが、真空パックされたそのわらび餅なら喜んで食べるのだという。わらび餅ですら、彼は吟味していた。もちろん、人間が食べても大層美味いということなので、今度出かけた折にぜひ買ってこようと思っている。

 いくら欲しがるからといって、そんなものまでやるのは良くないとたしなめたら、父の返す言葉に堪えた。

 「犬は何も知らないで、毎日毎日同じ暮らしをしている。どこに行けるわけでもない。話し相手も変わらない。楽しみがあるとすれば食べることだけ。食べたいものを食べて、それで多少のこと寿命が短くなったとしても、それで良いではないか。生きてて幸せ、と思える暮らしをしたのなら」。

 慢性膵炎でアルコールを止められている娘に送る荷物の隙間に、缶ビールが詰めてあったりする親だからそういう物言いは分からなくもないが、生きることの幸せとは何だろうとふと考えてしまう。改めて、生きることの幸せとは、一体何なのだろう。不覚にも両親の思いに目が潤む。届いたビールを決して開けることはできないのだけれども。
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OLIVERと戯れる
 海を越えて遥々ザグレブから届いた10数枚のレコードを端から聴いている。梅雨が明けたら聴こう、そう思って、届いてすぐダンボールの封を切るのは我慢していた。こんなことは珍しいことだが、クロアチア沿岸地方の有名なリゾート地であるスプリットの澄み切った青空が似合うOliverの歌を聴くのに、梅雨のじめじめは似合わない。

 それにしても、Oliverの前期オリジナルアルバムがひとまとめに手に入るとは思ってもみなかった。もちろんコンディションの厳しいものも中にはあるが、パチパチを気にしなければ音飛びまではしないので、この時期の彼の国の盤なら上々だろう。つい最近まで内戦のあった国で、しっかりと貴重なものが残っているということに心から感謝している。

 Oliverの初期の頃の歌、特に70年代の作品は、ダルマチア地方の音楽がベースで、どれも陽性のものばかりである。90年代に入ってヨーロッパのポピュラーの影響が強くなっていくが、それでもやはり彼はザバブネ(国民歌謡)の歌い手であり、そのルーツを見失うことは決してない。

 戦争の影響なのだろうか、ここ数年の作品の中には、思いを引き絞るようにして切々と歌い上げる曲も少なくない。ライブでは定番の「船とビン」などは典型的で、ある時期を境にして、Oliverは陰と陽の両方から人生の光を映し出していく。言葉はわからなくても、見えない力で引きずり込まれるような力強さと、体全体が包まれるようなしなやかさとが両立するOliverの音楽。落ち着いた頃にディスコグラフィーなどをまとめて紹介したい。
pop & rock (russian and other slavic) | - | - | author : miss key
カウチポテトは死語?
 連日の蒸し暑さで溜まりに溜まった疲れをとるのに絶好の三連休。したいことだけをするために、あらかじめ予定は入れずにいた。

 まず目についたのは文字通りタワーになりかけているソフトの山。広い部屋に引っ越したおかげで、タワーが日常生活を制約することはないが、片付くに越したことはない。もう1本だけ壁にラックを置くことを前提に、ざっとソフトの数を勘定してみたら、思ったほど増えていなかったので一安心。

 数はたいしたことがないが、つい見ないで溜めてしまうのがDVDだ。廉価版が出た時に欲しいタイトルを押さえるようにしているのがその原因だが、さすがに5枚も溜まると「見なくては」と気が急くのでまとめて見ることにした。久しぶりにテレビが大活躍する瞬間(笑)。

 食料と水分をしっかり準備してテレビの前に陣取った。そういえば、昔、カウチポテトという言葉があったなあとふと思い出す。ソファに横になって、ポテトチップスをかじりながらビデオを見たりして過ごすという、そんな意味だったかと思うが、今時は滅多に聞くこともなくなった。そういう生活態度が廃れてしまっているのか、あるいは当たり前になっていて指して呼ぶほどのことでなくなったのかは知らないが、ポテトチップスは大好物なので、久しぶりに買ってきて食べることにした。毎日食べるものでもないが、たまに食べるととても美味しい。

 さすがに5本も観ると目が疲れて頭も働かなくなる。10代の頃、映画館で一日中座って同じ映画を何度も観たりしたが―田舎の映画館だから、3本立てだったりもするし、あるいは客の入れ替えなどもない、最近はそういう気力体力が乏しくて映画をあまり観なくなってしまった。30代前半までは毎月10本は観ていたのに!

 テレビで見るのはほとんどが映画なので、いっそのこと薄型のシネサイズのモニターに買い替えようかとも思うが、今のテレビはあと数年は壊れずにいるだろうから、まだ当分先のことでも良さそうである。ちなみに私はソニー信者なので、テレビももちろんソニーのブラウン管テレビである。その前に使っていた14型のテレビもソニー製だったが、10年も壊れずにいた。映りも良いし、言うことはない。

 話がそれたが、うちには残念ながら快適なソファもなく、昔、当時の大家さんから譲っていただいた一人掛けのイスがあるのみである。基本的に物持ちのよい方なので、一方的に増え続ける音楽ソフトと本以外は、それほど入れ替わりがない。気の利いた家具やワードローブから溢れるほどの服や靴もなく、学生のような部屋だとからかわれることも少なくないが、最近自分の身の丈とはいかほどか、ということをいろいろ考えてみるにつけ、今の生活がちょうど良いのだと納得する自分がいる。ミニマムからはまだほど遠いが、自分に合った生活スタイルと、それを維持するのに必要な労働とがうまく均衡すれば言うことはない。まだ休みは2日ある。連休はサラリーマンにとってやはりありがたいものである。
よもやま | - | - | author : miss key
恋愛相談
 新聞や雑誌のコラムによる相談ものは決して嫌いではない。もう亡くなってしまったが、中島らも氏の「明るい悩み相談室」などは必ず目を通し、文庫なども持っているが、あとからまた読みたくなるのは、相談への回答が一時しのぎを超えて一つの作品として成り立っているから、といったら言い過ぎだろうか。

 私が相談コラムをよく読むのは、解決策が書かれているのを期待してではない。世の中の悩み事の多くには、おそらくこれといった特効薬はないであろうから。どうやってプラス思考に切り替えるか、あるいは問題の整理の仕方にコメンテーターそれぞれのテクニックがあって、それに興味がわくからだ。

 回答が相談者への単なる切り返しと言葉遊びになっては、何らかの妙案を期待する相談者には身も蓋もないが、その手の回答もよく見かけるので、そういうところに今時の世知辛さのようなものを感じなくもない。

 最近読んで思わず吹き出したのは、次のような相談への回答であった。歳の離れた男性と経済的安定を期待して結婚し、間もなく妊娠したはいいものの、夫がリストラされて無職となり、その女性は出産前後ぎりぎりまで働き、今後を不安に思うと同時に、結婚を後悔しているというもの。要するに、子供のことも考えて今の状況を前向きに考える方法はないかとのこと。いや、誤解なきように、面白いのは決して相談内容ではなく、文面に見え隠れする回答者のあまりにも割り切った態度である。(以下、抜粋)


 思惑が外れたとおっしゃりたい気持ちは分かりますが、思惑というものは外れるもので、それは言ってもしょうがないことです。(中略)
 ご主人が不治の病にかかったとかならもっと深刻ですが、あなたの場合は希望の灯があるからです。(中略)
 家族みんなで助け合ってこの危機を一緒に乗り越えることで二人の絆がさらに固くなる、そういうおいしい物語もあり得ます。(以下省略)


 
 冒頭でガツンと「あなたのおかれている状況は最悪ではないですよ」と整理してから、プラス思考への道筋を示すやり方はこの手の回答の王道と言えるだろうが、「思惑というのは外れるもの」というのが会話ではなく字面だとこれがえらくきつい、と感じるのは私だけだろうか。いや、吹き出したのはその次、「二人の絆がさらに固くなる、おいしい物語もあり得ます」のくだりである。

 逆境を乗り越えて人間関係を強くするということが、なぜ「おいしい」話なのか、上げたり下げたりのテクニックを超えて、これではあまりにも不謹慎な感じがして思わず笑ってしまったのだ。掲載されていたのは一応、三大紙のWebである。相談者がまだ20代前半の若い女性であることを考慮しているのかも知れないし、或は、恋愛の上級テクニックを授けるというような触れ込みなので、そういうちょっとした下世話さが読み手に受けると想定があるとしても、乳飲み子を抱える妻が夫の失業に不安を感じていることへの回答としては、私のような他人には受けたとしても、いかがなものだろうか。

 回答を読んで笑えるといっても、それは中島らも氏のそれとはかなり質が異なる。今日のそれは、悩みを持つ人の口元が思わず緩むような、そういう心が温まるようなオチではない。どうも腑に落ちないのでもう一度よく読んでみたら、そのコラムは結婚ビジネスの営業が絡んだもので、どうも回答に満足して話が終わってしまわないよう、しかけをいろいろ作ってあるようだった。

 加えて、営業がらみとわかって安心したのは、おそらくこれは宣伝用に作り込まれたやらせ相談だから、具体的な相手に親身になる必要もないということ。だからかえって妙な落としどころだけが浮いて見えて回答を可笑しくしているのだ。どう考えてもそうでないと話が完結しないので、私の推測は当たっていると思われるが、最初あると思っていた世の中の「一つの不幸」が実存しないというだけで、私の心は随分と救われた。こんな営業記事にあれこれ思うなんて、私もよほどヒマらしい。今日も平和な1日だった。
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ロシアの本を扱う店
 ロシアのCDも本も多くはネットで買えてしまう。ちょっと前までは信じられない便利さだが、CDの買い出し目的で短期の旅行をしなくなった分、とんでもない”めっけ物”と出くわすこともなくなってしまい、少し寂しくもある。そういうことを言ってる間にさっさとモスクワに行けばいいのだが、ここのところのテロ騒ぎでは、わざわざ大金使ってまで、と躊躇してしまう。

 ロシア語で書かれた本は、今でもソ連当時の計画生産の時のように、欲しいタイトルは事前に予約していないと手に入れるのが大変である。ハーレクインロマンスみたいなものは適当に通販でその時々に手に入れれば良いが、文学作品の類いは発刊部数も僅かで―私の手元にも300部しか刷られていない本がある―、しかも余程売れないと再版の目処もなかなか立たないので、予約募集の時を逃すとかなり苦しい。

 予約の年次が一番古いもので10年前ほどのタイトルがある。第1巻が出るまでに6年ほどを要したため、その後1年から2年に1冊ずつ続刊が発売されたものの、第3巻以降は予約した当時の店で何故か手に入らなくなった。私が転居した際に連絡が取れず、予約票を抹消されてしまったようだった。

 転居をきちんと知らせていなかったこちらが悪いので、店に苦情を言うつもりはないが、どうしても手に入れたい作品集だったので、手に入れ損ねた3巻と4巻、それ以降の予約を国内にあるもう一つの店にお願いしてみたら、何とかしてみましょうと快くお引き受けいただいた。それがこの1月である。

 待つこと半年、お店の方の尽力で第3巻を手に入れることができた。4巻は有名な作品が収められているので、バラ売り分も結構はけているのか入手はかなり困難らしいが、まあ諦めずに待ってみようと思う。

 驚くのは、そのお店を利用するのは年に僅か数回ながら、いつ電話しても店員の方が私の予約や探し物をきちんと覚えていてくださって、聞きたいことの返事が即答で返ってくることだ。扱っている本が本だけに、固定客中心の商売なのであろうが、とても常連とは言えない客の名前を覚えているのは大変なことだと思う。また、数多く出される作品の在庫状況などをきちんと把握されていて、さすが専門店だと納得させられる。

 先頃、渋谷にある老舗のT書店が一部を残して店仕舞いしたが、狭いながらも面白い品揃えだっただけに、本が売れない時代なのか理由はともかくとしてとても残念に思う。それ以上に日頃利用している書店が同じように無くなってしまわないよう祈るばかりである。文化を売るといったら語弊があるが、書店受難の時代はあまり明るくない未来を予感させるようで嫌な感じがする。専門書が最も売れない国とは日本のことだとどこかで聞いた覚えがあるが、最近の書店を眺めてもそれを実感させるものがある。もう少し、本を読もう。読みたい本がまだあるということ自体が幸せであると思いながら。
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フロイド貯金
 LIVE8でロジャーが参加するよ、フロイドが再結成だよ、と教えてくれた友人も、話を聞いた私も、実は半信半疑だった。ほんとかな? ほんとだったらいいなあ。Pink Floydという名を使うことさえ法廷で争ったメンバーが揃うなんて、正直あまり信じられなかった。

 でも、ほんのわずかな時間だけれども、再結成は実現、メンバーが肩組む場面まで見ることができたけれども、その日のインタビューでは、再結成はないよと答えていたらしい。あくまでもLIVE8というイベントだから、ということなのだろうか。ロジャーがステージに現れるまでの経緯を私は全く知らないし、想像もつかないけれども、でも本当にもうただの1回も再結成はないのだろうか。もしそうだとしたら、折角の機会を自分の思い込みでみすみす逃がしてしまったことになる。つくづくも運がない。

 ステージのメンバーの顔は、みな歳なりに老けていて、もちろん当たり前のことだけれども、レコードのジャケットに載っている彼らの写真とは随分隔たりが感じられた。それもそのはず、私ですらPink Floydの音楽を聴き始めてからもう30年以上が経つのだから!

 ファンのエゴでも何でもいい、とにかくあと1回だけ再結成してくれないかな、そうしたら何が何でも聴きにいくのになあ・・・数日の間、私はそんな独り言とため息の山を部屋に築いた。それで思いついたのは、フロイド貯金。


 大きなピンクのブタの貯金箱。特大サイズである。これに500円玉を粛々と貯めていこう。再結成されることを祈りつつ、願をかけつつ。これに丸まる貯まると結構な金額になるはずだから、きっとヨーロッパのどこでも聴きにいけるに違いない。久しぶりに夢見る気分。やっぱりPink Floydは素晴らしい。
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CG25Diがやって来た
 新しいアームとカートリッジがとうとう我が家にやってきた。私の使っているNottinghamのプレーヤーは元々ダブルアーム仕様だが、2本目のアームベースは使うアームのホール位置に合わせて作ってもらう必要があった。アームと使うカートリッジを決めてからベースが届くまでその間約1ヶ月ほど。わざわざ私のために1つだけベースを作ってもらうのだから何だかそれだけでもとても贅沢な話だ。

 アームとカートリッジ一式になるので、決して安い値段ではなかったし、それでなくても装置が大げさで嫌だなあと思うこともあったので、実際ダブルアームにするかどうかでかなり躊躇したが、迷っている間にどんどんとレコードを聴いた方が幸せだと思って踏ん切りをつけた。でも、今夜、お世話になっている店長さんにセッティングしていただいて音が出た瞬間―最初にかけたのはJack SheldonのJack's Groove―、何と言うか、笑いが止まらなかった。否、実際に声に出したのはほんの少しで、人がいるからじっとこらえたけれども、一人だったら文字通り笑いが止まらなかったに違いない。

 私が選んだCG25Diというカートリッジは盤によってやや不安定なところもあるようだが、取り敢えず手当たり次第に聴いてみても、それらしきところはまだ見当たらない。店長さん曰く、復刻当初はやや不安定だったが、作り手の方も慣れて製品が安定しているのではないかとのこと。Ortofonのカートリッジに共通している、下ろしたて時期の高域のやや神経質になる部分を除けば、今の時点でもう何も言うことはない。こういう音で聴きたかったというそのイメージのまんまで、頑張ってお金を貯めたかいがあったというものだ。

 今、数曲ずつ10枚ほど聴いたところだが、Stereoの針で聴いていた頃とは別盤のような再生に、針を落とす度に思わず声が出てしまう。ChetのSingsはもちろんのこと、ニーナ・シモンやアニマルズも、本当に生き生きとしてStereo針による再生にはない聴き心地よさと音の強さがうまくバランスして楽しいことこの上なし。サージェントペパーズのごちゃっとした密度感やペットサウンズでのコーラスの美しさ。こんな音が入っていたんだ!と思わずため息も出る。眠い音色だと思っていたエイエ・テリンのトロンボーンも実はそうではなかったのだと初めて分かった。ほんとうに驚くことばかりだ。

 おまけに店長さんからコレクションの1枚であるChetのJazz at Ann Arborをモノラル導入記念に譲っていただいた。このライブでは若い頃のChetには珍しく艶っぽい音色でとうとうと演奏しているので、いつかはオリジナルをと思っていた。実際にかけさせていただいて、部屋に漂う雰囲気、演奏当時の何とも言えない空気感―店長さん曰く、妖気のようだとも―にすっかり戸惑ってしまった。このタイトル、CDでは血抜きされたような感じになってしまい、そうした空気は全く感じられないのだ。まさにうれしい戸惑いというか、レコードの素晴らしさをまた一つ発見できたような気がした。

 誤解がないようにしたいのは、モノラルの音がステレオより優れている、というのではなくて、モノラル独特の世界があって、ステレオ再生よりもモノラルを好む人間は確実にいるということ。私は明らかにモノ再生の方が好みである。聴けるうちにどんどんレコードで音楽を聴きたい、それに尽きる。乱暴な言い方だが「聴いたもの勝ち」、そんな気がする蒸し暑い夜である。
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