音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
カメラも私も
 クラシックカメラ趣味は止めてしまったのですか?というメールを時々いただくが、決して止めてはいません。小さい頃から興味のあったカメラなので、止めようにも止められない、というのが正直なところかも知れません。

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 ただ、最も熱が入っていた頃と比べれば、お店をはしごして欲しいものを探し歩くこともしなければ、あれこれ熱心に資料にあたることもない。またオフラインミーティングのような撮影会からもさっぱり足が遠のき、傍目には止めてしまったかのように映るのかも知れない。

 私の手元には今20台と少しのクラシックカメラがあって、どれもこれと選び難い可愛いカメラばかりだ。50台を超えた頃からカメラの世話が苦しくなり、調子を崩すものが出始めたので、「里子計画」と称して順に貰い手を探すなどしなくてはならなくなった。手放すのは気持ちの上でかなり難儀な作業であったが、壊れたり不具合を来すようではオーナー失格なので致し方ない。そういう過程を経て残った20数台が、今も棚に顔を揃えて並んでいる。

 撮影を楽しむなら、本当は1台だけお気に入りのカメラがあって、そのカメラをいつも携えて出かける、というのがお洒落のようにも思え、少しだけそういう風なものに憧れたりする。カメラ好きの友人とは、ハッセル1台あればあとはいらないみたいな話もするのだが、そういう潔さみたいなものが、おそらく私に最も欠落しているような気がする。棚に並んだカメラがみなこちらを見て「そうだ、そうだ」と相づちを打っているようで、何だか可笑しい。

 機械的な調子を整えるのには、細かなことは別にして、月に何度かはシャッターを切ったりして動作させるのが一番だが、これ以上増えるとそれもままならなくなってくる。本当ならいつも磨いてピカピカにしておきたいくらいだが、夜寝る前に1台か2台に手を触れるのがやっとという感じ。なので、理想を言うなら10台くらいがちょうどいいのかも知れない。

 そうはいっても、10台を選ぶ作業がまた苦しくて、自然と貰い手が出て残ったものが私とずっといっしょに過ごしていくというのがいいなあと思ったりもするが、どうだろう。実用本位の電気カメラも京セラが生産を打ち切ったので、これも新しめのクラシックカメラの仲間入り。私同様、みんな古いものになってしまった。道理でいっしょにいると、居心地が良い訳だ。

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 そんな風なので、「彼ら」とはずっと一緒に歳をとっていくのだと思います。そういうのはクラカメ趣味とは言えないかも知れないですが、それが私にとって普通の暮らしの有り様の1つになっています。長いメールの質問への答になっていれば幸いです
よもやま | - | - | author : miss key
ヨード液は効果なし!?
 風邪の予防にうがいは欠かせない、と小さい頃から教わってきたので、元々気管支系や鼻・耳が弱い私は、人一倍”うがい”に気を遣ってきた。事務所に着いたらまず手を洗ってうがいをするのを習慣にしているし、うがい剤自体もそれなりに吟味してきたつもりだった。

 それが、新聞記事によると、水によるうがいの効果は確認できたが、ヨード液を使用したうがいは、うがいをしないのと対して変わらないという、イソジン系を愛用してきた私には非常にショックな実証実験の結果であった。

 無作為で多くの人の実証実験による結果だから、いかに疑り深い私でも信用せざるを得ないが、時折カエルのマスコット欲しさにコーワの「1、2、3」シリーズを買ったりする自分に、「やはりいつものイソジンがいいのではないか」とやや後悔するほどヨード系は効くと信じて疑わなかった。これまで20年近くの「うがい」は何だったのだろう。

 でもまあ、水うがいで効果があるのなら、それはそれで有り難いことだ。また収入が減るという話もあるし、消費税も10%は必至というから、固定費の圧縮につながることは大歓迎。私は今使っているイソジンが空になったら、もうこの赤い薬液の「お徳用サイズ瓶」を二度と買うことはないだろう(消炎剤としては最も小さなボトルを医者から出してもらう程度で十分だ)。

 私は自慢ではないが―今となっては自慢などとてもできないが―イソジンブランド以外にも、中身は同様で安価なサードパーティにも異様に詳しい。でもって、人に解説までしていた自分が恥ずかしくて穴があったら入りたいくらいだが、真に善意から勧めていたことであるので、どうか私の周囲の皆様にはご勘弁いただきたい。

 ところで、私がここまで興奮気味に書いているのは、今まさに酷い風邪をひいているからである。毎日の睡眠時間が4時間程度の生活態度では、体調を崩して当然なのかも知れないが、この忙しい時に風邪をひくなどとは気持ちが緩んでいるとしか思えないと自分に対して非常に腹立たしく思っていた矢先だった。

 明日からは「心機一転」、水うがいを日に3度は心がけよう。これまでの努力があまり役立っていなかったことは、やはりショックだが、物事は前向きに、間違いを正すことができたのだからそれでよいと、あくまでも「前向き」にとらえつつ。そうは思えども、やはり熱が上がりそうな衝撃の記事であった。
よもやま | - | - | author : miss key
Glenn Gould
 重いエピソードがついて回るタイトルは、余程のきっかけがなければ改めて聴く機会もないものだ。わざわざ避けているから、ソフトだって手元に1枚もないことさえ少なくない。私にとって、例えばその手のタイトルというと、ドアーズだったり、あるいはグレン・グールドの一連の演奏だったりする。

 ドアーズは「ハートに火をつけて」がとても好きで、学生時代によく聴いていた曲だが、やはりあるきっかけでもって長く聴くことを避けてきた。ハートに〜を聴くと、あれこれと思い出されることが多すぎる。片やグールドはというと、やはり既に亡くなった私の先輩が愛して止まなかったアーティストだ。

 彼という人は、作曲家でいうとブラームスが好きな、どちらかというと重たい曲調が好みの人だったが、修行時代の私はまだうんと若かったから、何かにつけ私は彼に対して反抗的であった。グールドの演奏はクラシックをまともに聴かない私にも強烈な魅力を持っていたが、反抗的な態度の証としてグールドは一貫して避けてきた。くだらない話だが、当時の私には、そういうつっぱりでもなければ、教科書もなく見よう見まね、体で覚えるしかないような仕事を何とか一人前にこなそうという頑張りもきかないように思えたのだ。

 そういうエピソードの根っことなる各々の主も他界して時が経ち、大切な羅針盤を失った喪失感も少しは癒えた。さすがにこの歳になって、甘いセンチメンタリズムにいつまでも拘泥するのもいかがなものかと冷めた感覚も手伝って、否、彼らが好んで聴いた音楽をあらためて一人で聴いてみたい、そして回想の海に体を浸したいのだと思う。

 グールドの音源の中で、比較的最近になってCD化された曲の中に、BachのBWV974、マルチェルロの主題による協奏曲ニ短調がある。この中でも特に第二楽章アダージョの響きはあまりにも切なく、まるでグールドの指先の動きが見えるかのような透明感に満ちている。

 いつだったか、二人して取材の帰り、少し時間があるからと冬の街路を傾いた陽を背にしてゆっくり散歩したことがある。その人が枯葉を踏みしめる音が妙に生々しく、グールドの弾くアダージョに重なってくる。音符が宙に浮かぶような華麗な指さばきのグールドと枯葉の風に舞う様が混じり合い、まるで一枚の絵のようにその光景が今私の目の前にあるようだ。

 今度の休日、天気に恵まれたなら、グールドをポータブルプレーヤーに入れてその道をのんびり歩いてみようかと思う。「君はモスクワの秋が素晴らしいというが、僕は東京の秋も捨てたものではないと思うぞ」とはよくその人から言われたことだ。もう少しだけ私はその人の前で素直でいたかったのかも知れない、そんな痛みを少しだけ残して想い出はどんどん私に優しくなる。秋という季節が以前にも増してありがたく感じられる今日この頃である。
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三冠馬はゴール板を知っていた?
 今日の菊花賞は、入場者数も新記録なら、馬も騎手も、それはもう見事と言うしかない勝ちっぷり。決してスムーズではないレース運びも終わってみればディープインパクトの強さばかりが際立ったレースだった。

 録画したビデオ画像で見る限り、ディープインパクトが引っかかったのは一週目のゴール板を意識してのことではないかと思う。口を割っていたのがゴール過ぎて間もなく落ち着きを取り戻すが、武騎手が自身のサイトでも触れているように、賢い馬だからそういう引っかかりをある程度予測はできていたとのこと。

 さすがにジョッキーは「馬はゴール板を知ってた」とは言っていないものの、昔別の騎手の方が、馬に「次は3000mだよ、いつもより長いんだよ」と教えることができたらなあとコメントしていたのを思い出した。

 とにかく無事に回って来れた。結果もついてきて、これ以上ない菊花賞だったが、驚いたのは2着のアドマイヤジャパンだ。母ビワハイジは牝馬ながら果敢にダービーにチャレンジしたほどの強い馬だったが、距離適性は正直、同じ馬主のアドマイヤフジ以上とは思えない。ジャパンが勝ったディープインパクトに最も迫った馬という評判を今日という日に覚えていた方はいい思いをできたかも知れないが、ここ連続して菊2着に入った横山ジョッキーの腕によるところも大きいだろう。先行してあれだけ粘り込ませるのはなかなか容易ではないことだろうから。

 海外なら種牡馬として早々に引退させるという話も出そうなほど、無敗のトリプルクラウンには値打ちがあるものだ。勝利騎手インタビューでは聞き手の勇み足か、思わず次はどこかと聞いてしまっていたが、ファンの気持ちも周囲もどこまで馬本位でいられるか。強さと人気が重なると、どうしても別の圧力がかかることになり、馬に負担のかかることがこれまで多かったような気がする。こうした思いがただの1ファンの杞憂に終わって欲しい。

 今日のレースで「引っかかった」ように、ディープインパクトがどんなに強くても、やっぱり1頭の馬であることに違いはない。もう二度と見ることがないかも知れないほど素晴らしい瞬間を目の当たりにしたことを幸せに思うと同時に、今日勝てなかった馬たちにも次のチャンスがあるように心から願って止まない。どの馬たちも本当によく駆けて、いいレースをしたと思うから。
よもやま | - | - | author : miss key
おまじない


    ディープインパクトが無事、三冠馬になれますように。

 

 一頭の馬が多くの人に希望を与えてくれる。私にとってはそれがトウショウボーイであり、ミスターシービー、そしてダンシングブレーヴだったりしたけれど、これほど多くの夢を与えてくれる馬も最近では珍しいかも知れない。

 彼は菊花賞では鬼門とされる7番ゲートに決まったが、そんなことは全く意味を持たないだろう。かつてその7番から見事に菊の冠を戴いたビワハヤヒデがそうであったように、持てる力が発揮されれば結果は自然とついてくる。

 恐いのは、速い馬がみなそうであるように、脚もとの事故だけ。馬場は最近の雨もあって少し緩み、いい具合のクッションに仕上がるのか、どうか。久しぶりに沸く淀の競馬。その場に居合わせることの幸せ。

 ディープインパクトの関係者の方々が海外重賞や天皇賞よりも菊花賞を選んだことに一人のファンとして心から感謝したい。無敗の三冠馬、人生のうちにそんな馬とそう何度も巡り会えるわけではないのだから。

 初日の単勝は元返し。きっと同じように、思い思いのおまじないをしながら、ディープの優勝を願う人がたくさんいるに違いない。たくさんの人の夢を乗せて走る優駿。記憶に残るゲートが開くまであと2日間である。
よもやま | - | - | author : miss key
Dylanの夜
 ずっと残業漬けだったのをいいことに、今日という日は早じまいして新宿のライブハウス(のような会場)に出かけた。今何かと話題になっているBob Dylanを語る会があるというので、ぜひ行こうと前々から予定していたのだ。

 語り手は、萩原健太さんや能地祐子さん、レコードコレクターズの編集長、そしてThe Silver Cricketsのお二人の5名とかなり豪華。私はこれまでまともにディランの歌を聴いたことがなかったので、企画の告知を見てからの約1ヶ月、私なりに予習をして会に臨んだ。

 予習というのは、ディランの曲をまず聴いてみること。深夜帰宅して眠た目でamazonで注文したら、最初買ったCDはディランの曲をThe Byrdsが歌っているアルバムで失敗。でも曲はすごくいい!ということは分かったので、今度はDisk UnionでBest盤をアナログでゲット。でもGreatest Hitsの2だったので、肝心の「風にふかれて」や「ライク・ア・ローリング・ストーン」は入っていなくて、ここでも外してしまったが、でもディランの声をようやく聴くことができた。

 いざ聴いてみると案外ラジオなどで聴いたことのある曲も結構あって、そりゃあこれほど有名なアーティストだもの、当然だと思いつつ、でも何故今それほど雑誌などでも話題になっているのか、とても気になった。

 最近、ベテランのアーティスト達が思いっきり内容の濃いアルバムをリリースして話題になっているけれど、そんなもんじゃないだろうというのが素人目にも伝わってくる。自伝、というのもあるよと聞いたので、早速書店で手にとってみた。クロニクルと題されたその本は、曲が先か、本が先かと言えば、やっぱり彼の音楽を知らないと理解が難しいという気がしたが、その程度の予習であるがゆえに、やはりディランという人は私にとって謎多き人のままであった。

 トークショーは濃いファンが数多く集まり、ある種異様な熱気もあって参加する私までも緊張する始末だったが、いざ始まると、素晴らしい映像の数々が披露され、またパネラーの方々から様々なエピソードやお勧めのアルバムが紹介され、初心者にも十分ついていける構成だった。最後にジャンケン大会による素晴らしいプレゼントは、残念ながらゲットできなかったものの、或は酔いが回ったディランマニアなサラリーマン二人にファンかどうかのチェックを受けてどぎまぎしたりもしたが、約4時間に渡るイベントは濃密で時間の過ぎるのを忘れるほどであった。

 特に印象に残ったビデオクリップがある。それは"Tight Connection to My Heart (Has Anyone Seen My Love?) "という曲のプロモーションビデオで、東京を舞台にして撮られた作品だ。何故か倍賞美津子さんが出てきたり、ストーリーも訳が分からない感じだけれど、シーンの切り貼りが面白くてすっかり気に入ってしまった。もう一度家でも見たいと思って必死に探したが、なかなか見つからない。何かのおまけについているのだろうか。このクリップのおかげで、私とディランの距離は、アンドロメダ星雲ぐらい遠かったのが、毎晩眺めるお月様くらいに近づいたような気がする。巧い説明が出来ないのが歯がゆいが、見えないほど遠かったのが、秋の夜なら手の届きそうな月くらいにはなった、ということだ。

 東京は今日のようなイベントがあちこちで開かれていて、そういうのに参加しない手はないなと思うようになった。どうも出不精のせいか、東京に住んでいるという利点を十分に活用できていないのだが、素敵な音楽との出会いは人との出会いでもあるので、自分から積極的に出かけていかないとチャンスは生まれないなと思ったりもする。Dylanの夜、思わぬ驚きと収穫に満ちた充実のひとときであった。
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化粧をしないのは
 原油価格の高騰で、石油を原材料とするいろいろなものの値段もじんわりと高止まりし、経済にも日頃の生活にも少しずつ影響が出始めている。私の知り合いなどはなけなしのへそくりを先物買いに投資しており、一喜一憂の日々。プロでもつまづく難しい商品なのに止めておけばという私の制止する声も届かず、今頃は改めて声をかけることもできない結果になっているかと思うと、おいそれと電話もできない。

 それはともかく、先日職場の打ち上げの帰りに、「それにしても**さん(私のこと)は化粧っけがないですね〜」と興味深げに同僚が尋ねてきた。私のことを古くから知っている人間なら絶対にそんな質問はしないのだが、今年から初めて机を並べた人であるが故に、日頃から気になっていたのだろう。或はCDばかり買っていて、化粧品を買うお金もないなどと思われているのだろうか。

 化粧っけのないのは、その言葉通りである。していないのではなく、皮膚に負担がかからないよう、最低限のことしかしていない、否出来ないが故に、ずっとそういう風にしてきている。そのせいか子供っぽく映るらしく、よく歳を間違えられるが、私が濃い化粧を避けるのは匂いや油成分に酷いアレルギーがあるからだ。

 元々アトピーで、夜中に手袋をして寝なければ顔なり手足なりをかゆさからひっかいて起きたら血だらけ、みたいな時期もあったほど。それを食事や生活時間の管理、それ以前に刺激を与えないことというルールを守ってきてようやく傷跡の少ない顔で出歩けるようになった。

 そういう理由がなければ人並みに化粧をしたかも知れないが、でも油の塊を塗りたくって毛穴を塞ぐという行為が私に自然にできたかどうかは疑わしい。それに、掻いた傷がないつるんとした肌がとてもきれいだと思うし、十分満足している。

 素顔に近い状態は人に対して失礼とTPOのことに触れる人もいるが、アレルギーのためにしたくてもできない女性もいるのだから、少しは発言に気をつけた方がいいと思う。より美しくありたいとお化粧を楽しむ女性は多いし、自由に化粧品を選べない悩みを持つ人も結構世の中にいる。だいたい、私のように半ば開き直った人間ばかりではない。

 私にそんな質問をした、10以上も歳の離れた男性にいちいち回りくどい説明をする気力もなく、そんなことをしたらまるで説教しているみたいに見えるからさらに面倒だ。私自身は自分をまるきり変えて見せるのに化粧は面白いと思うけれど、実は自分の素顔が好きだったりするので、これでいいと思っている。むしろ素顔を恥ずかしくて見せられないみたいなプレッシャーがあったら、それはまたそれでしんどいことだし、逆に奇麗にお化粧した表情もまた別の美しさがあってとてもいいものだ。但し、それを自分という人間が喜んで受け入れるかどうか、同じようにするかどうかはまた別の問題である。

 古い知人はそういう問答をしかけられるが故に、私の前に化粧の話題を決して持ち出さない。それは懸命な判断だと思う。私の仲のいいある男性のように「僕は化学が専門だからわかるけど、あんなに原価の安いものをバカ高いお金だして買うなんて女性って本当に不思議な生き物。そんなしてまできれいになりたいってどういう気持ちかね」などと嫌みを言うまではしないが、誰にとっても禁句というのはある。件の同僚にまたその話題を持ち出されたら、今度は平場でゆっくり話すことにしよう。話せば分かる、というのが私の信条だから。
よもやま | - | - | author : miss key
DU
 NHK-FMのWorld Music Timeのドイツ音楽特集で紹介されていたアーティストの中で、ひときわ印象に残ったGlashausのDUという曲。どうしても自分の部屋でゆっくり聴いてみたくて、Amazon.deから取り寄せた。

 Glashausは女性ボーカルに男性2人のグループ。DUの収められた3rdアルバムDreiは音の整理された透明感あるサウンドで、時折クラブ系のようなアレンジの曲も混じっているが、夜一人で静かに楽しむにはもってこいの作品。

 ドイツ語はさっぱり分からないのに、どうしてこの曲に殊更惹かれたのだろう。DUというのは「あなた」を指す言葉で、メロディはとても優しく、きっとラブソングだろうと教わった。何度も繰り返し、聴いてみる。少しずつ、胸の奥底から静かに柔らかな雪が積もるかのような、しんしんと、静かに迫る思いのようなもの。こみ上げるものとは、全く違う。


 私と同じような人がいるのだろうか、いろいろなアレンジが収められたDUのmaxi singleが出ていて、どの曲もなかなか魅力的だ。

 shopであれこれ試聴して結局1stも2ndも良かったのでまとめて買ったのだが、3rdアルバムが素敵だと思うのは、ブックレットの歌詞が6Bの鉛筆で書いたような力を感じさせる筆致のもので、私には読めないけれどとてもお洒落なこと。こんなCDをさりげなくプレゼントしてくれる男友達がいたら、株は随分と上がることだろう。ちなみに、Glashausの公式サイトから素敵なe-cardが贈れる。

 そういえば、まだ20代の頃、どんな男性が好きですかと訊かれて「さりげなく手紙を送ってくれるような人」と答えたら、随分引かれてしまったことがある。今時はこちらから書き送っても、ものすごく意味のあるものと受け取られて誤解を招きかねないが、今ほどメールや電話が便利じゃなかった時には葉書に綴られた一言が素直にうれしかった。

 DUの歌詞を、太い鉛筆で紙に描き写してみる。一文字ずつ書いてみると、何だか思いが伝わってきそうな気がする。歌の意味はやっぱり分からないけれど、この紙を気兼ねなく手紙に送れる相手がいたらいいなと、少しだけ想像する夜。まるで星が落ちてきそうなほど、静かな夜。
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中島らも「ロッキンフォーエヴァー」
 中島らもという人は私にとって作家というよりは、語り手であり歌を手段にしたメッセンジャーだったような気がする。私は彼のトークショーやギグには数回しか出かけたことはないが、紙やCDからは伝わりきれない、じんわりとした生暖かさが彼のライブには充満していて、それは今も私の中に確かな感触として残り続けている。

 らものCDというのはまるっきりインディーズなので、ライブ会場で入手するか、あるいは氏の公式サイトを通じての通販くらいしか入手する方法がなかったが、映像はなかなか残っていなくて、そういえば昔テレビのインタビューかなにかで家族といっしょに出演していたのがあったなあと思い出せる程度。それが、今回白夜書房から詩集とセットでライブ映像のDVDがリリースされた。

 中島らも「ロッキンフォーエヴァー」と題されたそのBOXセットは、装丁もなかなか豪華なもので、正直、彼の詩集がこうやって出るというのは期待すらしていなかった。彼のファンも十分納得できる丁寧な編み方は、例えば、合間に挿まれた貴重な写真もすばらしければ、彼の書いた原稿がそのまま載せられていて、書き起こしたときの気分がなんだか伝わってきそうな、感じがして・・・。

 そして肝心のDVDの方は、「いいんだぜ」ほか全17曲、約100分間の映像に加えてスライドショーも収められた豪華版。映像のコンディションは万全とはいわないけれど、ギグの臨場感そのままに、画面に釘付けになってしまう。歌はともかく、前後のトークも収録されているのがなお良くて、私など実際に観ていないギグもその場にいたかのような錯覚を起こしそうなほど。そんな風だから、逆に本でしか中島らもを知らない方にぜひ見て欲しいと思う。

 最近、いろいろな音楽CDのおまけにDVDがついていることが増えてきたけれど、映像が持つ力というのを私はこれまで少し軽視しすぎてきたきらいがあって、「動く絵」の説得力に改めて魅了されている。

 彼が亡くなって1年と少し。らもという人が確かにいたんだなあと過去形で振り返ることのできる適度な時間の経過が、こうした映像や残された詩集を素直に受け止めさせる。私にとっては「今夜、すべてのバーで」を時折読み返しながら過ぎた時間だったけれど、追いかける作家がどんどんと去っていく寂しさは拭い切れないものがあった。それでも、こうしてライブ映像を眺めていると、それもまた過去形になって、彼が残したたくさんのメッセージを別な視点から噛み砕こうとしている自分がいることに気づく。

 ロックって何だろう。そう思いつつ、聴く音楽もロックと呼ばれるものが手元にどんどん増えて、うちのライブラリも随分様変わりしたものだと我ながら驚くことさえある。そんな1年ほどを経て、らもという人を表現するのに「ロッキンフォーエヴァー」という言いようはとてもぴったりくる感じがする。今回の作品は、DVDとのセットなので少々価格も高いのだが、中島らものファンでない方にも機会があればぜひご覧頂きたいし、詩集もぜひ手に取ってみていただきたい。しんみり過ごす秋の夜にお勧めの1冊である。
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熊使い
 昨晩、関口義人さんの「ジプシー・ミュージックの真実」発刊記念のイベントに出かけた。(※氏はロマという表現を使わず、ジプシーと著作の中でも表記されていますが、差別的な意味あいは全く無く、きちんとした理由があってそのように表記されているとのこと。)そこでは、興味深いロマの人々の生活ぶりに関しての解説や音楽、さらには取材先で収められた貴重な写真や映像の数々が惜しみなく紹介され、著作の延長線で少しお話が聞ければ、くらいに思って出かけた私は正直とても驚いてしまった。

 その中でも、ウルサリと呼ばれる熊使いの方に出くわした時の写真には、本当に驚いてしまった。何しろ立ち上がった熊は、背丈2メートル30センチというから、ちょっとしたマンションの天井の高さくらいあって、その大熊と鎖でつながった老いた熊使いが並んで立っている様は、ただそれだけで圧倒されてしまう。私は最初、背の高い人間の男性が着ぐるみをきているのではと勘違いしたが、それは、本物の熊をまるで猿回しのようにして芸をさせるということ自体、想像もできなかったからである。熊は後ろ足がしっかりとしていて、容易に立っていられる、という話は耳にしたことがあるにせよ、ぬうと立ったその大きな熊はそれだけですごかった。それも実物を見たのではない、写真をみただけの話である。

 熊使いの男性は何やら楽器を持っていて、熊を引き連れながら音楽も演奏するようだ。先日紹介したプレイリストの2曲目、タラフ・ドゥ・ハイドゥークスの「ウルサリのホラ」という曲が、熊使いの歌だということである。ただ残念なことに、そうした熊使いのファミリー(ロマの人々は代々世襲で職業を引き継いでいくため、ファミリー単位でカウントされるようである)も7つとか8つとか数少ないものになっているそうだ。町中で熊を引き連れて芸をさせることが安全性に問題ありとする今時の規制も大きなハードルになっているのではとのことだったが、おそらく今からヨーロッパに出かけても、そうした熊使いに遭遇する事はおそらく相当困難なことなのだろう。

 ロマの人々のそうした文化や音楽については氏の作品をご覧いただくとしても、熊使いがいる!ということがにわかに信じられない方も少なくないだろう。著作権の問題があるかも知れないので、ネットで写真を引っ張ってくるのはどうかと思わないでもないが、絵で見ないと伝わらないことなので、ある画像を引用させていただいた。


 




 私がイベントで見せていただいたような、大きな熊のものは見つける事ができなかったが、この画像よりもはるかに大きな熊が、都会の町中で主人に連れられて芸をしたり、レストランに背をかがめて(笑)入っていったりするというのだから、本当に驚きだ。一度でいいから自分の目でみてみたい。久しぶりに旅欲にかられ、驚きに満ちた夜であった。
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