音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
銀塩エレジー
 Nikonの銀塩カメラ撤退から間もなく、コニカミノルタのカメラ業界からの撤退が発表され、フィルムカメラの市場はすっかり寂しいものになってしまった。そういう私もデジタルカメラをメモがわりに使いながら、きちんと写真を撮るときはフィルムカメラでなければというこだわりを捨て切れずにいる中途半端なユーザーの一人である。

 今朝の新聞によると、最後の駆け込み需要なのか、年配者やマニア層によるボディやレンズのまとめ買いで、都心の量販店は対応に追われているとのこと。なかには60万円を超える金額で6本のレンズをまとめ買いするようなお客もいるという。

 私など執着がある割には、使っているメーカーの銀塩撤退が発表されて以降、手持ちのカメラをメンテナンスには出したものの、ボディの買い増しなどは一切していない。特に電気カメラの場合は部品切れが寿命を決めるので、無理して買い増ししてもあまり意味がないように思えたのだ。やるならオーバーホール、それでも費用は結構かかってしまった。

 私の心配は、フィルムメーカーがどう出るかということの一点であったが、富士フィルムはフィルムの供給を続けるとのこと。価格が若干高くなるだろうが、カラーネガさえあれば私には事足りるので、ものがありさえすればそれだけで十分ありがたい。

 そういえば先日、LINNの黒い箱シリーズがディスコンになるとのお知らせが来た。うちのCDプレーヤーもその中の1つで、LINNはとうとうユニバーサルプレーヤーのシリーズに特化するようだ。私はLINNの音が好きでアンプやスピーカーもLINNなのだが、新しい製品の音はあまり好きになれないでいる。なので、今使っている機種を壊さないように大切に使うしかない。

 気に入ったオーディオの音は、着慣れた洋服のようなもので、古くなったからといってそう簡単に他のものに替えられない。カメラもオーディオも、技術が進めば進むほど、私が気に入って使っているものはどんどんと生産中止になっていく。技術が進めばそれだけ世の中便利になるはずだろうに、それは万人にとってそうとも言えないようだ。不器用な自分がどんどんと取り残されて行くような一抹の寂しさを否定できず、さりとてそういう自分を嫌いになれない複雑な心境。懐古趣味と指差される要素が増えるばかりの今日この頃である。 
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何でも買えてしまう
 新聞もネットもライブドアの事件をひっきりなしに取り上げているので、ライブドアという企業そのものにそれほど関心も持たなければ感心もしない私でさえ、今週は一連の話題にすっかり巻き込まれてしまった。

 当社の代表者の「お金で買えないものはない」といった意味の発言を何かで知ってからは、そういう風にはなりたくないものだと思いつつ、私もつい最近、それに近い勘違いをしそうになっていた自分にはたと気がついた。

 私が普段お金を出して買うものと言えば、CDなどの音楽ソフトと本くらいのものだが、ネットがこれだけ便利になって何がすごいかって、それまで入手するのに大変な思いをしていたCDが随分と簡単に手に入るようになったことだ。貴重盤や流通ルートが細くて店頭には出て来ないような海外盤でも、ネットで検索すればたいていのものは見つかってしまう。巧くすればより安いところで上手に買うことだってそれほど難しくはない。

 手に入る、という事実には何の変わりもないのに、以前ほどCDが届いてもあまり感動しなくなってしまった。今夜もエストニアのTanel PadarのCDが出ているのが分かって探してみたら、2枚も入手可能で、すぐにオーダーできてしまった。私がエストニアに旅行に行った時以来だから3年以上探していたわけで、もっとうれしくても良さそうなものだが、簡単に手に入るようになったのと引き換えにある種の感動は随分と小さくなってしまった。

 週に1、2個届く海外からの小包。前はそれこそいろいろな土地からCDが届く事自体がうれしかったが、慣れ、というのはあまりいいものではない。慣れるというのは、いってみれば感覚の麻痺である。事の大小はあるものの、ライブドアの事件がああして大きくなってしまった背景を、今の私はあまり馬鹿にもできないでいる。

 誰でもするかも知れない勘違いを、彼らは大きなお金をもってしてしまっただけのことではないだろうか。加えて自分たちの内輪だけのルールがいつのまにか一般化されていくような錯覚は、ある種の陶酔感も手伝ってそれを自ら遠ざけることは難しいだろう。最近、旧帝大の現役学生が起こした「鍋パーティー」事件にも同じような構図が見え隠れする。

 何でも買えるわけではないのにそんな気がしてしまう自分に、なんだか嫌気がさす。たかだかCDのことなのでむきになることはないのだけれど、手に入ることと豊かさとは必ずしも一致しないということにもう少し真摯に向き合うべきなのかも知れない。久しぶりに反省する、冷たさの堪える夜だ。
よもやま | - | - | author : miss key
最近の新譜から

 昨年の11月後半から結構な枚数の新譜がリリースされたロシアものですが、聴いた中からよかったものをご紹介します。
 下の5枚の他にも、ReflexやБлестящие、珍しいところではアレクサンドル・セロフのライブ盤などごちゃっといろいろ出ています。年末年始に出たものがもうすぐ届く予定なので、またその中からも改めてご紹介したいと思っています。
 

[album / artist]

□ Я же его любила / София Ротару

 大御所、ソフィア・ロタルのオリジナルアルバム。年代的にはアーラ・プガチョーワと同じ人なので、ジャケの絵は・・・ですが、それはさておき、中身は安心して聴ける100%エストラードナヤの充実盤です。
 1曲目の"Я же его любила"はどこかで聴いたような、と思ったらコンスタンチン・ミラッゼの作詞作曲。9曲目の"Любовь не купишь"はシングルで既に出ていて、ミラッゼ、ダニルコ、ヴィア・グラとのコラボレーションでヒット。ラスト10曲目はニコライ・バスコフとのデュオでいかにもロシア歌謡の香り。冬のこの時期ならこの濃さもこなせそうという感じの全体に濃厚な仕上がりです。


□ Тебе понравиться / Жасмин

 ジャスミンの5枚目のオリジナルアルバム。彼女はミレニアムデビュー以降、毎年1枚ずつアルバムをリリースしていて、毎回意識的に装いを変えているようなところがありましたが、内容は今回のアルバムが一番こなれている感じがします。男性とのデュオが5曲と多いのは、ここ1、2年のブームを意識してのことでしょうか。普通のポップスファンにも勧めやすい、ロシアっぽさをうまく残しながら聴きやすくまとまった1枚。おまけのビデオクリップも充実しています。


□ По дороге домой / Александр Малинин

 アレクサンドル・マリーニンの2005年ライブ盤。DVDもリリースされそうな予感なので、CDにするか迷うところでしたが、マリーニンの活躍をチェックするなら最適の1枚。昔の彼ならギター1本で淡々と歌ってたのでしょうが、最近の業界の傾向なのか、今回はやたらとショーアップしたステージのようです。70年代から歌っていて今もなおバリバリに活動している歌手となると、本当に少なくなっています。そんな意味でも日頃気楽にライブに行けない私のようなファンにはうれしい近況報告のようなアルバムです。


□ Океан / Валерий Меладзе

 ワレーリィ・ミラッゼの最新ライブ録音。国内限定盤にDVD付きのものがリリースされていますが、今回はCDのみバージョンです。選曲は最新シングルから過去のヒット曲まで思いっきりベスト盤仕様になっています。ライブのステージがゴージャスといえば、ミラッゼも筆頭格。私はクリップやストリーミングで伺い知るのみですが、何とかして近いうちにライブを観たいと思っています。この辺りになると一般のポピュラーファンの方にはちょっと重たいかも知れませんが、いまどきのロシアな1枚を選ぶとしたらこれも候補の1枚です。


□ Кручу-верчу / Катя Лель

 カーチャ・レーリの6枚目になるオリジナルアルバム。公式サイトもリニューアルして以前に比べて音源も充実しています。今回のアルバムも既にアップされていますので、とりあえずはぜひ聴いてみてください。
 最近のシングルもたくさん入っているので新鮮味は薄いですが、彼女の作詞作曲である4曲目の"Две капельки"、7曲目の"Я люблю тебя"はかなり気持ちの入った曲。今彼女が歌いたいのはこんなにも落ち着いた曲なんだと伝わってくるようなビデオクリップも付いています。個人的にはイーゴリ・サルハノフとの共作になる2曲目の"Два ангела"がお勧めです。
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雪にあたる
 タイトルの意味がすぐにわかった方がいらっしゃったら、きっとその方と私の出身地はとても近いに違いない。いや、同じような方言のある土地が他所にもあるかもしれないが、少なくとも私はこれまで地元の人間以外からこの言葉を聞いたことがない。

 「雪にあたる」とは、私の田舎で降雪の前や雪の降る最中に体調を崩してしまうことを指す。食あたり、のあたると同じ使い方なのだろう。お腹を壊したり、頭痛がしたりするのだが、通常の体が冷えて体調をおかしくするのとは少し違っていて、「明日は雪が降るかも知れない」と感じる何かがある。この辺りは言葉で説明するのがとても難しい。

 昨日の夕方になって、急に職場の中が慌ただしくなり、いい時間になって急に5つの資料を作るよう指示が出た。1つ作るのでもいい加減にしてくれと言いたくなるようなタイミングであったが、土日が入るのでそうも言っておれず、とにかく手を動かした。

 まとめる中身を咀嚼しようとするとそれだけ時間を喰うので、とにかく頭のてっぺんからどんどん引っぱりだしては手を動かす。こういう職場にいると、この手の芸が自然と身に付くから驚きだ。あまり褒められたやり方ではないが、中身の善し悪しよりも、間に合うかどうかが優先される時は都合がよい。

 それはともかくとして、同じ島(班)の中で一人ドツボにはまった私は、黙々とA3の紙に材料を落とし込んだ。それでもなかなか終わらず、上司から「もういい加減月曜にしましょう」と声をかけられた時にはすでに日付も変わっていた。彼は金曜の夜から都内も雪だというので、帰れなくなるのを嫌って私の仕事を切り上げさせようとしたらしい。

 「雪はまだ降ってもいないし、まだ少しの間は降らないと思いますよ」とぶっきらぼうに言う私に「外を見てもいないのに何故わかる!」と彼は少しむっとした様子だったが、なぜもなにもわかるのだから仕方がない。そうはいっても説明のしようもなく、私もおとなしく引き上げることにした。建物の外は冬らしい冷え込みではあったが、雪はまだであった。

 今朝、いつも通り起きてみれば外は一面銀世界。ベランダにも数センチの雪が積もってしまい、私は生まれて初めての雪かきをした。放っておいては階下に迷惑がかかってしまうから、庭掃除用のちりとりを使って、雪をせっせと下ろした。普段ならこれだけ体を動かせばお腹も空くが、食欲も今ひとつ。おかげでここ数週間で余分につけた脂肪を巧い具合に落とすことができ、思わぬ副産物に少し嬉くなった。

 外に出かけようと思っていた夕刻になっても、雪は降り止まず、私は外出を諦めた。交通機関の状態も心配であったが、何よりもこの体調で雪の上をころばずに歩き通すのは私には無理に思えたのだ。案の定、夜にはけが人が何人とか新聞に載っている。私が外にでれば、まずそこの数字を確実に1人分増やしたろう。

 同じように「雪にあたる」人が身近にいるかどうかは知らないが、気分や体調が天候にあまり左右されない人たちが羨ましい。先日TVで映画「バグズ・ライフ」を観たが、雨が降るといって慌てふためく虫たちの様子に、私の前世は虫だったのかもしれないと思ったりしたものだ。

 エアコンディションの効いた室内―金と技術で命長らえる環境を手に入れたかのような人間であるが、雪で体調を崩すのは、例えば体を維持したり、付いて行けなかったりする環境変化へのアンテナの一つと言えなくはないだろうか。あるいは、単に慣れない環境への適応ができない拒否反応にすぎないのかも知れないが、どんなに忙しくても、体の発するシグナルに耳を傾けることだけは忘れてはいけないというのが持論である。それにしても、汗の流れる季節が懐かしいほど、今日という日はほんとうに冷たい1日だった。
よもやま | - | - | author : miss key
住処考
 家というのは、実際に住んでみないと分からないことが多い。これまで何度となく引越をしたが、部屋を決める際に穴の開く程図面を見たり、いろんな時間帯にその場所を訪ねてはあれこれ環境をチェックしたりと、それなりに準備をするものの、案外住み心地が良かった部屋もあれば、逆もまた然りであった。

 ものが増えて、必然的に「ものを減らす」か、つまり部屋に住まい方を合わせるのか、ものを減らさずに、否減らせないから、もっと広い部屋に移るのかの二者択一になった時、私は今回に限って後者を選択した。広い部屋は家賃も高いから贅沢なように思えたが、私のような年齢にもなれば、既に自前の家を構えている人も少なくない。長くはたらき続けた見返りに、住む環境を少しグレードアップするくらいは許されるのではないかというのが、去年の今頃考え始めていたことである。

 では、新しい住処を得て数ヶ月経ち、何の不満もなく快適かというと、実はそうでもない。職住接近ながら周辺の環境には恵まれているし、日当たりが思ったほど良くはないという点も、それほど大きな問題ではない。にもかかわらず、思い切って選んだ広さが逆効果だったのか、広すぎて落ち着かない。寂しいというのとは異なる、あの狭さ故の安心感の全く正反対にあるものである。
 
 何でも手が届くという狭隘な部屋。6畳一間に本棚が4本、ベッドに椅子とテーブル。最も酷いときで、床が40cm四方しか空いていないという時期もあった。確かに見た目は狭苦しいのだが、実際に住んでみれば圧迫感はそれほどでもなく、案外居心地がよかったものだ。

 ゴミの中とまではいかなくても、山のようなものに囲まれて暮らす生活は、およそ人間らしい暮らしとは言えないと思いつつ、きっとどこかで安心し、これでいいのだと肯定する自分がいたに違いない。そんな心のつぶやきを無視してしまったのだろうか、昨年春にこの広いマンションに越してきて、今はその広さが気になって仕方がない。

 一度ものの量を膨張させてしまうと、なかなか元には戻れない。捨てればいいだけの話なのに、持てるものの量というのはおよそ可逆的ではないようだ。否、広さを活かした生産的な生活をあらたにつくりだしていくべきなのだろう。これまで広い部屋に住んだことのなかったという貧乏性も手伝って、当分は落ち着かない時間が続くのだろうが、どうずればもっと居心地を良くすることができるのかいろいろ考えてみようと思い直した。

 構造計算書偽造問題で、古いマンションの価格にも影響が出ているという。「いまが買い時ですよ」という業者のチラシが毎日入るなかで、こと家に関しては決断らしい決断ができない私には、賃貸という仮の宿が身の丈にあっていると思いつつ、根無し草のような生活をもう少し何とかしたいという気持ちにけりをつけることもできずにいる。無い物ねだりとはよく言ったものである。
よもやま | - | - | author : miss key
ほしのうた
 いつも楽しませていただいているblogに月の入った美しい写真が載っていた。私は夜の写真というと「青い灯、赤い灯」を撮るのが好きだったが、夜空を見上げるのはとても好きだ。今住んでいるマンションでも廊下やベランダからぼんやり夜空を眺めていたりするから、ご近所の人に「どうかしましたか?」などと声をかけられたりする。夜空でなくても、遠くのものをじっと眺めるのは気持ちが自然と集中できてよい気分転換にもなる。

 近所迷惑だからベランダで歌をうたったりはしないけれど、そういう時に限って歌いたくなるのは久保田麻琴と夕焼け楽団の「星くず」だ。記憶力にまるで自信なしの私がそらで歌える歌はとても少ないが、この曲は歌詞をみないで歌える数少ない1曲で、もちろん風呂で歌う定番でもある。

 話がそれたが、アルバム「ディキシー・フィーバー」に収められたこの曲を初めて聴いたのは中学の時だったと思う。高校を卒業するぐらいまではどうしようもなく体が弱くて、横になっている時間の方が圧倒的に長かったのだが、そんな私に父がよく図書館でレコードを借りてきてくれた。

 父は日本のポピュラーを聴かないので、例えばアリスと海援隊を簡単に間違えてしまうような人だが(どちらも3人組だし、私はどちらも好きだったからまあ問題ない)、時々はリクエストしなくても自分で選んで(あるいは司書さんに勧めてもらって)くれたものがある。ディキシー〜もそんな1枚で、私の夕焼け楽団初体験となった。



 多分、ジャケットが楽しい絵柄だから中身の音楽もきっと明るい調子のものだろうと想像したに違いない。そういう単純さは親子そろって負けないくらいで、複雑怪奇な世の中のいまだから余計にありがたかったりするが、父の思惑どおり、このアルバムを聴いていると、明日はきっといいことがある、私はそんな気持ちになれたし、それは今でも変わることがない。

 年明けの慌ただしさも一段落。暖房の効いた部屋で寝るまでの間、ぼんやりと音楽を聴くのが一番の楽しみになっている。こうして「星くず」を聴いていると、好きな歌というのは何年経ってもずっと好きでいられるんだなあとしみじみしてしまう。ちなみに久保田麻琴と夕焼け楽団のアルバムはリマスターされて紙ジャケで再発しているので、世間の慌ただしさから一瞬脱出したい!とお思いの方にはぜひお勧めの1枚である。
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天高く迎えられて
 チベット地方の習俗である「鳥葬」に関し、取材などを禁止する法律が施行されるという新聞記事が目に留まった。最近山の本ばかり読んでいるせいもあって、チベットというまだ見たこともない土地のことを想像しながら「鳥葬」について少し調べてみた。

 鳥葬は天葬とも呼ばれ、死者の肉体を魂ともども天に送るために鳥に体を食べさせて行う葬儀を指す。チベットでは1000年を超える歴史ある儀式でもあり、民族の文化を尊重するという意味でも今回の法律が作られたとのことだ。

 わざわざ法律で見物や撮影を禁じる必要がなぜあるのか、私には即座に理解することができなかったが、この習俗を観光として扱うツアーがあるようで、その客の大半は日本人であるという記事を目にしたときは、正直、私にはいくら他所の文化に興味があると言っても少々悪趣味に過ぎないかと感じられた。

 その善し悪しはさておき、鳥葬は夢枕獏の『鳥葬の山』や辰巳ヨシヒロの初期作品『鳥葬』でも扱われているが、前者のややSFチックな小説世界はともかくとして、そうした習俗には通常馴染みのない日本人にとって、鳥葬はシュールな印象を持たずにいられない風習であることには違いない。

 現実にそのようなスタイルをとる背景には、おそらく宗教上の意味合いの他に、遺体を焼却することが難しいという現地の地理的条件によるところも大きいだろう。東京のような過密都市の場合にも様々な制約を前提に現状の制度があるわけで、人生にとって最後の儀式もすべからく効率優先とは言わないまでも、「理想」を許さない事情はどこの国においても多かれ少なかれ存在する。

 鳥葬を捉えて理にかなったリサイクルの姿だと論じる人もいるようだが、近年人間の体には様々な薬や添加物が蓄積しているせいか、以前のように欠片一つ残さず鳥が天に運んでくれるという訳にはいかず、人間の歪んだ生活が環境サイクルを阻んでいるという記述にため息が出た。
 
 田舎で自分のところで作った野菜中心の食生活であった過去ならともかく、今の私は添加物一杯の食べ物をアレルギーを気にしながら食べる毎日。だいたいそれ以前に体が弱いから何年も薬を頼りに生きている。私のような人間は「鳥」にも見放され、或いは将来、疫学的衛生的観点から一切の埋葬も許されないような時代が来るのかも知れない。

 先日の細野晴臣さんのコンサートで歌われた"STELLA"にしてもそうだったが、空高く星になって天に召されるというのは、残された人がある種の安息を得られる共通のイメージなのだろう。人間が生み出した便利で効率のよい生活が、とどのつまりは人間が自然の摂理に従って還元されていくことまでをも阻害するとしたら、死してなお終わりのない旅行きに出されるようでもあり、心穏やかならざりし点は否めない。

 そんな自分に認識できないような後々のことまで気になるとは、思ったより自分という人間は小心だということに気がついて愕然とする。チベットのように人間の限界を超えたいくつもの頂に臨む地域に惹かれるのは、そういったことと何か関係があるのかもといった想像はいつものことながら考え過ぎで、一笑に付されるべき、いやそうあって欲しいと思う。冷える足元をさすりながら、考え事が進みがちな冬が早く終わりますようにとは南国育ちの勝手な独り言である。
よもやま | - | - | author : miss key
ロシアの通販事情に変化が
 ちょうど12月の後半から、日頃使っているモスクワの通販ショップからの配送が止まってしまった。締めてないオーダーは一律キャンセルとなり、いきなり通知が来て驚いたが、なに、年末年始の郵便事情を考えて、事故を避けての手配に違いないと勝手に思い込んでいた。

 さすがに、1月もすでに10日が過ぎて、「もう大丈夫だろう」と再オーダーをかけたら、「貴方の住所には商品を配送する手だてが一時的に存在しない」というエラーメッセージが。解せないので店のカスタマーセンターにメールしてみたら、次のような返事が来た。

 「現在、CD、DVD、VHS、一部の古いプリント(書籍)については海外への配送ができなくなっています。これは私どもの事情によるものではございません。しかしながら、このような状態は一時的なもので、近い将来にはご利用いただけるものと考えております。ご不便をおかけすることをお詫びするとともに、変わらぬご愛顧をお願い申し上げます。」

 今ロシアでは、ウクライナとの摩擦を始め、外交の絡んだ経済問題が山積している状況にある。きっとそういうことも影響してのことか、あるいはどこかの国のように、並行輸入による損害を避けるための措置なのか背景はよくわからない。

 若干気になるのは古いプリントがだめという点で、基本的に古本など、特に辞書類などは国の財産とされ、国外への持ち出しは原則禁止である。いずれにせよ今の時点では恒久的な措置ではないとのことで、気長に海外向け販売の再開を待つしかないが、年末にウクライナのロックバンド、ドルーハ・リカの再発やミラッゼの限定盤など気になるものがどんどんリリースされていただけに、正直この状況にはがっかりしてしまった。

 まあ、いってみればよくも悪しくもそれがロシアなので、状況が好転するまで待つしかないのは確かである。ロシアという文化に付き合うことは、すなわち精神修行のようなものではないかと思わないでもない今日この頃である。
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91年の「アガニョーク」
 先日いただいたお土産の中に、何と91年のアガニョーク紙が入っていた。当時の私は就職して間もなく、せっかく大学時代に覚えたロシア語の文法も怪しくなっていて、「就職したらロシア語の学校に通おう」という意気込みも、月給の安さに阻まれて実現することはなかった。

 勉強したロシア語を忘れてしまうのはもったいないという思いから、神保町にあるロシア東欧方面の書籍の専門店を時折訪ね、賞味期限切れではないが、少し古くなったロシアの新聞や雑誌を1部100円程度の捨て値で手に入れては、読めなくてもロシアの雰囲気だけは味わえると、狭い部屋に喜んで並べたりした。

 アガニョークはグラスノスチ時に話題になった「闘う雑誌」の代表選手のようなものだったと記憶している。アガニョークというネーミングもそうだが、論旨がしっかりしているので、ロシア語の読解力を養うのに適切な教材となる文章が豊富なことから、今でもそうした教材で活用されているようだ。

 就職して数年後、ちょうど仕事が合わなくて辛さを感じ始めた頃だったが、思うところあって夜学に通い始めた。ロシア語の学校は都内にも限られていて選択枝はそれほどなく、仕事が終わって間に合う場所というと1つしかなかったのだが、その学校での1年間は今思い起こしてもかけがえのない充実の時だった。

 ロシアに旅する度に、あちらの新聞や雑誌を買い集め、随分溜め込んでいたが、引越する毎に荷物の多さに根負けして、そういったものは適当に処分したり、あるいは何かの包み紙にして使ってしまった。今思えば、頑張って全部とっておけば、今頃面白く振り返りながら読めたかも知れないと少し後悔しなくもない。ついハードカバーの書籍優先でものを残してきてしまい、後悔先に立たずであるが、仕方ない。

 手すり頼りのリハビリのようにして、辞書を使いながらいただいたアガニョークを読んでみた。その時代の空気が行間に刷り込まれてでもいるかのように、私も遠い記憶の旅をする。幸いなことにロシアの人気誌はよい紙が使われているのか、かつてソ連時代の印刷物にはありがちであった痛んだするめのような臭いもない。あの臭いのせいで長く保存するのが躊躇われた資料もかなり処分したが、今になればあれもまた文化や経済背景の反映としての一つの個性だったと思えなくもない。

 15年の時を経て縁あって私の手元に辿り着いたアガニョークを床に広げてはしげしげと眺めている。もらってうれしいお土産というのは様々だろうが、こんなお土産も滅多にないだろう。

 私の本棚にある軟弱なロシアの読み物たちを横目に、クリップで留められたアガニョークはなんと堂々としていることか。願わくば当時の論説に展開されたある種の強さを私も欲しいと思う。闇雲に抗うでのはなくて、説得力ある論説でもって対抗できる強さを。アガニョーク(灯火)という名の通り、灯し続けるということの意味を問う。埋み火のようであっても、自分なりの思いを持ち続けたいものだと思う。
よもやま | - | - | author : miss key
幸せの音
 昨日はあの寒さだというのに、ついレコード店をはしごして歩いてしまった。細野さんのコンサート以来、昔の作品をあれこれ掘り返しては聴いているが、その中に、彼のアルバムの中ではあまり売れなかった部類に入るモナド観光シリーズという環境音楽のような4枚組の作品がある。あらためて聴いてみると、なぜかこのシリーズのCDの音が今ひとつで、確かリマスターのボックスがあったと思って探してみるもすでに品切れ。それでもっと探すのが面倒なアナログ盤を探してみることにした。思い立ったら吉日。

 ふと気が向いたので高田馬場のレコード店をぶらぶら探し歩いてみたら、なんと4枚のうち3枚を手に入れることができた。見本盤のせいか価格も安く、ほとんど新品同様の盤が全部でわずかCD1枚分。いや、うれしかったのは盤が見つかったことであって、出かけるときは見つからなくて当然くらいに思っていたので、棚から引っぱり出したときは思わず声が出そうだった。

 昨夜はお土産にいただいたポーランドのIrena Jaroskaという女性ボーカルのベスト盤を聴いていて時間切れだったので、レコードを聴くのは今日になったのだが、それにしても何て新鮮な音がするのだろう。CDで聴いているとつい眠くなるような感じだったのに、音のシャワーを浴びてじわじわとリフレッシュしているのが分かる。アナログで聴くモナドシリーズは密度感があって心地よさも格別。寒い中探しまわったかいがあったというもの。

 歌ものが好きな私にとって、これらのアルバムが出た当時は、少々近づき難かった。環境音楽というとせいぜいブライアン・イーノくらいしか聴いたことがなく、シンセを使った音楽でもヴァンゲリスやクラフトワークのように音楽に物語があると喜んで聴けるのに、細野さんのこのシリーズは音の塊が頭から降ってくるような気がして、CDを無理して買ったのにあまり聴くことはなかった。

 当時聴いてだめでも、時間が経つととても気に入るようになったりすることがあるのは本当に面白いと思う。作品は変わりないから、聴く私の方が変化しているのだろう。不思議なのは、昔好きだったのに今はあまり好きでなくなったというのは1つもないこと。なので、かつて気に入っていたものを今になって一生懸命掘り起こし、ソフトを探し集めていたりする。

 残り1枚は、映画のサウンドトラックにもなった「パラダイス・ビュー」というアルバム。このレコードが出てくればビンゴ!なのだが、探すのがあまり上手でもない私には、この最後の1枚を揃えるのはそう簡単ではない気がする。だいたい、昨日は1年分の運を使い切った感があるので、盤が出てくるのをあまり期待せず、気長に探したいと思う。それにしても、とてもいい音がする。探し物に出会えて幸せを満喫する休み明けのひとときである。
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