無題あるいは日々の雑感 | 2006.03.26 Sunday |
昨日は同僚の披露宴に招かれた。手作りの案内やプロフィールビデオなど、豪華な会場とセッティングの中にも彼らしい温かみのある素敵なパーティで、一緒に出席した管理職ともども和みのなかにほろりとくる場面もあったひと時だった。
こういう時に限って、わざわざ「お気遣い」いただくことが多くて困る。私のような歳の人間をつかまえて、「そろそろ貴女も考えた方が・・・」というご忠言はありがたくもあり、またその一方では返す言葉もなくて、上手くかわせない自分に歯痒さを覚える。相手に思わず笑み漏れるような洒落た返答ができれば大人としては合格点なのだろうが、答えようのない質問、それはそれで愚問の域を出ないといったら言い過ぎだろうか。
「見守る」という言葉がある。私はこれまで何度か、「あなたのことを見守りたい」といわれてきた。そう言われる度に、言わんとするところが見えず、そして当惑した。でも、いまならその真意がわかる。いや、相手のことを「見守りたい」とする気持ちになれるようになったという方が正確か。
ほとばしる感情の流れに身を任せて生を痛いほど感じるよりも、少し離れたところに身を置いて静かに眼差しを向けることに自分の存在の確からしさを感じる。そして、不安に揺れるときや辛い時にも、いつも微笑みを絶やさずにいられる自分でありたい。
常々思うことだが、人生の愉しみ方はきっと人の数だけあるはずで、幸せ探しのゴールもまた果てしなく終わりのないものだ。それを文字通り苦痛に感じる必要もなく、長ければ長いだけ楽しめばいいだけのことで、それが生まれて来たことの歓びなのではないかと思う。様々な国の、様々な音楽に触れる度に、そういう想いを強くする。いろいろな意味で「折り返し」の春。
こういう時に限って、わざわざ「お気遣い」いただくことが多くて困る。私のような歳の人間をつかまえて、「そろそろ貴女も考えた方が・・・」というご忠言はありがたくもあり、またその一方では返す言葉もなくて、上手くかわせない自分に歯痒さを覚える。相手に思わず笑み漏れるような洒落た返答ができれば大人としては合格点なのだろうが、答えようのない質問、それはそれで愚問の域を出ないといったら言い過ぎだろうか。
「見守る」という言葉がある。私はこれまで何度か、「あなたのことを見守りたい」といわれてきた。そう言われる度に、言わんとするところが見えず、そして当惑した。でも、いまならその真意がわかる。いや、相手のことを「見守りたい」とする気持ちになれるようになったという方が正確か。
ほとばしる感情の流れに身を任せて生を痛いほど感じるよりも、少し離れたところに身を置いて静かに眼差しを向けることに自分の存在の確からしさを感じる。そして、不安に揺れるときや辛い時にも、いつも微笑みを絶やさずにいられる自分でありたい。
常々思うことだが、人生の愉しみ方はきっと人の数だけあるはずで、幸せ探しのゴールもまた果てしなく終わりのないものだ。それを文字通り苦痛に感じる必要もなく、長ければ長いだけ楽しめばいいだけのことで、それが生まれて来たことの歓びなのではないかと思う。様々な国の、様々な音楽に触れる度に、そういう想いを強くする。いろいろな意味で「折り返し」の春。