音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
魂に近づく―Basie is back!
 昨晩、雨の中、秋葉原はDinamic Audio Sound House 5Fで開かれた"Basie is Back"に出かけた。それほど広いとは言えないフロアに、20人ほどのお客がぎっしり詰めかけたのは、店長の厚木さんの渾身の調整でベイシーの新譜が聴けるということに加え、スペシャルゲストの山口孝さんの解説がつくというこれ以上は望めない素晴らしい条件に他ならないだろう。



 このアルバムは、つい先日発売されたばかりのLPで、05年10月に仙台で行われたカウント・ベイシー楽団の結成70周年記念ライブ盤だ。エイティ・エイツからリリースされる新譜で悩ましいのは、LPとCDでは曲目が一部異なり、しかも曲順も違うので、結局どちらも欲しくなってしまうこと(笑)。

 山口さんの解説では、どちらがいいとはおっしゃらなかったが、LP盤の選曲と曲順は、Basieファンにとってもうこれ以上ないもの、との言葉に私はまず LPから買うことにしたが、この会は、その選りすぐりの全10曲がもれなく素晴らしい環境で音楽ファンに披露された素晴らしい2時間だった。

 曲と演奏、そしてその再生の素晴らしさはもとより、演奏と同じかそれ以上に熱い思いを込めての山口氏の語りに、私などがあえて説明するまでもなく、ああ久しぶりに浴びるようにして本物のスイング、本物のJAZZを聴いたという震えるような感動と爽快感で一杯。仙台のライブ会場の空気がそのままイベント会場に届いたかのような臨場感に、体をじっとさせてはいられなかったのは、私だけではなかっただろう。「時を超えて、突き抜けるもの」。音楽を、心を込めて調整されたaudioで聴くことの醍醐味を、惜しみなく体験させていただいた。
 
 山口さんが話されたことの中で、最も印象的だったのは、「人はhappyになりたいから音楽を聴く」というもの。音楽の持つ人を幸せにする力を信じる人の語る言葉には、一言、一言に力があって、私は山口さんの話を噛み締めるようにして聞いた。氏の雑誌の連載ではとても難しい表現があって、私はなかなかその言わんとするところに辿り着けないでいるが、手を伸ばせば届くような間近で視線が時々合いながら聞くその言葉は、とても噛み砕かれたもので、しかもまっすぐこちらの胸に投げ込まれてくる。受け止める側にもエネルギーの要る熱を帯びたことばに、自然と目が潤む。そんな語り手はそういないだろう。

 余談だが、解説の冒頭にいソノてルヲさんの名前が出てきて、かつてNHK-FMの毎週日曜夜に流れていたいソノさんの解説による番組でJAZZを教わり、その後一生の憧れになるChetの歌と演奏に出会った私は、うれしくてすっかり舞い上がってしまった。私は評論の世界にはとんと疎いのでよくわからないが、いソノさんはちょっと変わっていたのか、 JAZZ好きの方と話をしていてもあまり会話に出てくることもない。そんな氏の名前が山口さんの口から出て、何倍も嬉しくなってしまった。

 私はaudioを趣味にしてはいないけれど、昨日のBasieのように、本物のBasieがそっと後ろから見守っているのではないかと思うような世界を体験すると、装置の調整をもっと突き詰めることでChetに近づけるのではないかと思ったりする。スツールに浅くかけて歌うChetと刺し違えることもできそうなくらい、生々しく、そして狂おしいほどに彼の魂に近づくことができたなら・・・。帰りの車窓が雨に濡れて揺れるネオンの色に見とれながら体を揺らす。"Basie is Back"、本当に素晴らしいひと時だった。
live & イベント | - | - | author : miss key
『二十歳の原点』
 ここしばらく、「もっと物を整理しよう」と思い立ち、CDは減らせないので、本を選り分けて、要らないものから処分をしている。今の部屋は、昔住んでいた「荷重で傾ぐから部屋を退去してください」と家主に言われたアパートとは比べ物にならないくらい広いし、しっかりもしている。でも、たくさんものを持っていることに、どこか嫌気がさしてしまった。

 ものを減らすことがシンプルでスローな生活につながっていくのかどうかは、判然としないけれど、不要なものの山に囲まれてそのコストを払っていくのは、やっぱり合理的とは言えないだろう。

 そんなこんなで本棚を端からチェックしていたら、『二十歳の原点』が出て来た。どんな本かは説明が要らないと思うけれど、私がこれを初めて読んだ頃はまだ文庫を新品で買うことができたのに、何故か私は古本屋でこの本を探した。それも京都の古本屋でないといけない、みたいなおかしなこだわりがあって、いかにも学生が読み古したかのような文庫本は、今も私の手元にある。

 人間関係の軋轢を感じるとき、反射的にこれを読みたくなる。『二十歳の原点』の高野悦子だけでなく、原口統三の『二十歳のエチュード』も何度となく読み親しんだが、書かれている中身というよりは、両者の書く独特の透明感に癒されるからだと思う。自殺本に癒される、というのは意味が通らないかもしれないが、ランボーに耽溺するのとそれほど変わらない感覚でもって、いても立ってもいられず読みたくなる、それが『二十歳の原点』だったりする。

 それは、昨日のこと。なんと息が詰まることと思いながら、ふと窓の外を見たら、土砂降りの雨の後、ビルの谷間に美しい虹がかかっていた。「あ、虹が見える」と思わず声を出したら、あれよあれよと言う間に同僚たちが窓のそばに集まり、みんなして虹を眺めること、数分。誰ということなく「この職場は憩いに飢えている」などと軽口をたたく。でもそれが本音であり、真実でもあるから、目尻の端に浮かぶ笑いが少し寂しい。

 人を傷つけることでしか自分の存在を確かめられないのかと思うほど、いとも簡単に人を罵倒できる管理職を前にして、風通しの良い職場にするために、何が出来るだろうと考える。パワハラとは簡単にいうけれど、それを生み出すのは一体何なのだろう。誰もが気持ちよく、楽しく働きたいと思っていながら、それが実現できない職場の方がずっと多いのはなぜか。

 相手を尊重するということがそれほど難しいのだろうか。誰かのために何ができるだろうか。あるいはそんな考えを持つこと自体がおこがましいのだろうか。自分に迷いが生じるほど、驚くような人間関係を目の前にして、胃がおかしくなりそうなのに、何かできることはないのだろうかと考えあぐねる。文庫本を片手に、愚直、という言葉をじっと見つめる。
- | - | - | author : miss key
木に囲まれた生活
 引越のときに楽だからと、もう随分と長らく、組み立て式の家具をつかってきた。学生の時に買った事務用の本棚が歪んで上手く組めなくなって以降はホームエレクターで統一してきたが、最近とみにそのスチールの質感に馴染めなくなり、木製の家具に囲まれた生活がしたいとしきりに思うようになった。

 以前と比べればおよそ3分の1になったとはいえ、まだまだ大量にある本や、かさ高く重いレコードをしっかり収納するのに、エレクターはコスト的にも都合が良かったのだけれども、部屋の中に金属がたくさんあると、やっぱり殺伐とした感じが否めない。

 もともと古いものが好きなので、年季が入って飴色に艶の出たような木の家具が揃えられたらいいなあと、ずっとそう思ってきたが、そこに長く住めるかどうか分からない賃貸生活だと、つい引越や、あるいはそこまでいかなくても模様替えの手軽さを考えてしまい、使い勝っての便利な組み立て家具を選びがちだった。

 さらに贅沢を言えば、そのまま寝てしまっても大丈夫なくらいのソファが欲しい。こうした大きな家具を入れるとなると、その部屋に長く住むことをある程度前提にしていないと面倒だが、音楽の流れる部屋で本を読みながらそのまま眠り込んでしまえるような環境ならどんなにいいだろう。

 時間の余裕が生まれると視線が変わるのか、生活の中でいろいろと気づくことが多い。これまでなおざりにしてきた生活の要素―花を生けるとか、光の入れ具合を工夫するとか、そうしたほんとにちょっとしたことなのだけれど、気持ちの余裕がそういうところまでまわるようになると、きっと生活も充実するに違いない、そんな気がしている。
よもやま | - | - | author : miss key
KOMRI
 昨日、せっかく出かけたからとその足でサウンドクリエイトで開かれたイベントに参加。もう随分しばらくぶりに行われたLINNのKOMRIというスピーカーをメインにしたサウンドパーティである。

 audioというとついスペックや価格に目がいきがちだけれど、実際に聴いてみるとそういうこととは関係なく、二度と忘れられない音に出会うことがある。KOMRIは私にとってaudioの印象を変えたスピーカーで、KOMRIで聴ける機会をとても楽しみにしているが、昨日のイベントでのKOMRIはこれまでに聴いた以上に、音がよく動き、音楽が活き活きとして、とても伸びやかであった。その一方で決して熱すぎず、また、これでどうだといった押し付けがましさもない。

 絵画を見る時に、別にタッチがどうのとか、部分の描写がどうのと意識しないのと同じで、よく調整されたaudioシステムで音楽を聴くときは、そのシステムの存在自体を忘れ、体が音楽に包まれることの幸せに身を任せる。「部分」を微細に観察するのもまたaudioで音楽を聴く面白さではあるけれど、これほど機械の存在を意識させずにふんわりと自然に音楽に包み込まれる空間を演出されると、もうこれ以上何も要らないと思えてしまう。

 残念だったのは、今日突然立ち寄ることになったので、自分のディスクをもっていなかったこと。今日そこで例えばDenny Zeitlinを聴いたらどんなに素晴らしいだろうと思うと・・・。同じようにセッティングすれば、全く同じ通りに音が出るかというとそういうものでもないのがaudioの不思議なところで、生演奏の如く、audioで再生された音楽もまた違った意味で一期一会になる。

 来週もまた別な場所で、素晴らしいイベントが予定されている。熱い思いを持った方々が各々に気持ちを込めて用意されている会なので、きっと其処に当日、JAZZの神様が降りてくるのではないか、などと思ったりもする。今週末は素晴らしい写真に音楽と、すっかり命の洗濯をできたので、きつい仕事も何とか続けていけそうである。
audio | - | - | author : miss key
写真と眼差しと
 もう付き合いもそろそろ10年になろうかという友人の個展に出かけた。昨夜の天気予報では台風の加減で雨ということだったが、朝起きてみれば外はまるで夏空のような快晴。今年になって初めて麻のシャツに袖を通して出かけたのがちょうど昼過ぎ。

 旧作も入れて展示してあるよ、と事前に聞いていたが、展示された順を追って丁寧にプリントされたモノクロームの作品群を見ていると、ついさっきまでの暑さを忘れてフレンドリーな「視線」に気づく。

 作品の展示位置も気遣われているのだろう、作品一枚一枚が耳元にそっと囁くように語りかけてくる。小池徹という人の写真は、「何も足さず、何も引かず」。作品として切り取られた風景から素の人柄が感じられるのはもちろんのこと、彼はごく普通のありふれた―おそらくかつてはそれほど珍しくなかった―幸せのシーンを小さな四角の世界に写し出す。

 ギャラリーで過ごした時間は、ここのところ、殺伐とした時間を過ごしていた私には、まるで精神安定剤のようなひと時。写真は撮る人の眼差しを写し出す。優しい心持ちの人の写真を見る度に、自分も撮ってみようと思うが、写真の中に今の自分の気持ちが写り込んでしまうと思うと重い腰がなかなかあがらない。

 撮りたいものだけでなく、撮りたくないものまでも写り込んでしまうのが写真の残酷さで、それが撮る人を分け隔てることなく、写真は写真であることが写真の誠実さ。私にはそのいずれも魅力的であるけれど、撮るだけのエネルギーが今少しばかり足りないようだ。夏はもうそこまで来ているのだけれど。
よもやま | - | - | author : miss key
「片付ける」という仕事
 少し前の話になるが、吉本のタレントさんが司会をしているバラエティ番組で、ゴミに溢れた部屋をきれいにしてあげるという企画があった。テレビ番組をほとんど見ない私も、部屋の汚さというか物の多さに驚いて、その片付く様子をTVの前でじっと見守った。というか、顔を背けても目は画面から離れない。

 友人にそのことを話したら、やらせなのではないかと笑ったが、世の中にはいろんな事情があって物を溜めてしまう人は決して少なくないようだ。物とゴミの境は微妙なもので、持ち主がいらないと思えば、その瞬間からゴミになるが、そうでないなら、その人の持ち物でもある。

 少なくないようだ、というには根拠がある。というのも、そうした難儀な部屋を片付ける専門の業者さんがあるのをネットで見つけたからだ。業が成り立つからにはそれなりの件数があるからで、業者の中には事件や孤独死といった訳ありの部屋を片付ける専門業者があり、これには私も驚いた。

 世の中、いろんな生業があるけれど、人が面倒がったり嫌がったりする仕事をその対価と引き換えに快く引き受けてくれる人たちがいる、ということに改めて感心する。人の役に立ちたいと思いつつ、私などはなかなかそれが実現できないでいる。

 お客さんが喜んでくれる顔を見ると、どんなに面倒な作業があったとしても疲れがすっと取れたりするものだが、片付かない、それも強烈に片付いていない部屋に人を入れることすら難しいのに、そうしたお客のニーズをくみ取り、相手の気持ちを害さないよう、しかも素早くプロの仕事をするというのは大変なことに違いない。

 東京という街には、私が知らないだけで、きっといろんな仕事があるに違いない。それを商売、といってしまうとまた言いたいことのニュアンスが違ってしまいそうだが、なりわいというのは本当に奥深いものだとつくづく思った。
よもやま | - | - | author : miss key
届くのに最も時間がかかったCD
 リガのショップから5ヶ月かかってようやく1枚のCDが届いた。Tanel Padar & The Sunのベスト盤だ。

 注文したのは去年の末。Tanelはエストニアのグループなので、タリンへの旅行以来ずっとエストニア国内で通販してくれそうな店を探していたが、こちらの英文が下手なのか、応じてもらえる店が見つからずに終わっていた。

 バルト三国のCDを扱うショップをリガに見つけ、そのショップでいつかTanelのアルバムが出てくるかもとずっとチェックしていたが、待つこと数年間。なので、オーダーしてから届くまでの数ヶ月は待てない時間ではなかったが、それにしても長かった。

 エストニアはCDに限らず、国内で物を作る力があまりないということで、旅した折も、街中にCDショップがとても少なくて、また店があってもポピュラーの国内盤を見つけることができなかった。私が旅してから数年の間に産業化が進んだかも知れないが、現在もリリースされている枚数はそれほどではないようで、私は彼の国の音楽をストリーミング放送で楽しんでいる。

 Tanelに何故こだわるかというと、もちろんその音楽が好きなのだけれど、エストニアへの旅行時に3日間お世話になったガイドの方から彼らのことを教えてもらい、日本で紹介するという約束をしていたからだ。国民的な行事である歌の祭典が行われるエストニアで人気のロックグループだから、魅力がないなんてはずがない。

 先日買ったライブ盤と合わせ、これからは彼らの音楽を好きな時にいつでも聴ける。日頃からCDをそれこそ山のように買っていると、つい1枚、1枚への思いが希薄になるけれど、どうしても聴きたかったアルバムをこうして手にすると素直に嬉しくなる。これからTanel以外のアーティストも少しずつ掘り起こして行こうと思う。
pop & rock (russian and other slavic) | - | - | author : miss key
届くのに最も時間がかかったCD
 リガのショップから5ヶ月かかってようやく1枚のCDが届いた。Tanel Padar & The Sunのベスト盤だ。



 注文したのは去年の末。Tanelはエストニアのグループなので、タリンへの旅行以来ずっとエストニア国内で通販してくれそうな店を探していたが、こちらの英文が下手なのか、応じてもらえる店が見つからずに終わっていた。

 バルト三国のCDを扱うショップをリガに見つけ、そのショップでいつかTanelのアルバムが出てくるかもとずっとチェックしていたが、待つこと数年間。なので、オーダーしてから届くまでの数ヶ月は待てない時間ではなかったが、それにしても長かった。

 エストニアはCDに限らず、国内で物を作る力があまりないということで、旅した折も、街中にCDショップがとても少なくて、また店があってもポピュラーの国内盤を見つけることができなかった。私が旅してから数年の間に産業化が進んだかも知れないが、現在もリリースされている枚数はそれほどではないようで、私は彼の国の音楽をストリーミング放送で楽しんでいる。

 Tanelに何故こだわるかというと、もちろんその音楽が好きなのだけれど、エストニアへの旅行時に3日間お世話になったガイドの方から彼らのことを教えてもらい、日本で紹介するという約束をしていたからだ。国民的な行事である歌の祭典が行われるエストニアで人気のロックグループだから、魅力がないなんてはずがない。

 先日買ったライブ盤と合わせ、これからは彼らの音楽を好きな時にいつでも聴ける。日頃からCDをそれこそ山のように買っていると、つい1枚、1枚への思いが希薄になるけれど、どうしても聴きたかったアルバムをこうして手にすると素直に嬉しくなる。これからTanel以外のアーティストも少しずつ掘り起こして行こうと思う。
world music | - | - | author : miss key
Remember Chet
 今日は5月13日、Chet Bakerがホテルの窓から転落して命を落とした日。毎年、この日ばかりは一晩中彼の演奏を聴いて、気怠い声とトランペットの世界に浸り切る。

 去年は、最晩年の録音を順に楽しんだが、今年はYoung Chetの歌と演奏を選んだ。"Sings"、"Sings and Plays"、"Jack's Gloove" etc...。なかでも、「お月様」のジャケットの方の"Sings"には最も好きな曲の1つである"Everything happens to me"が入っていて、私にとっては特別なアルバムだ。

 この曲は、Chetが得意だったといわれているわりにはそれほど録音も残されていない。ここでの歌とバークレーの吹き込みで残っていたトラックを比べると、アレンジも歌い方もお月様の方が甘美で、JAZZというよりはラウンジの女性向けボーカルといった具合だが、この気怠い空気に包まれてしまうと私は身じろぎもできなくなる。

 トランペットの方はというと、若い頃の音色にはまろやかながら芯が強く感じられる。晩年の鈍い光を放つような音色とは異なり、World Pacificの不遇な時代を挟んで70年代以降、彼がカムバックしてそれこそ「失う物は何もない」かのような演奏に至るまで、一人の演奏家の音がこれほど表情を変えていくのかと不思議に思うこともあったが、トランペットと生活が切り分けられていたような人ではないので、その時々の生き様と演奏があまりにも一体になりすぎて、音は嘘を付けないのかもしれない。

 今日という日をこうして過ごすのは、何もこうしなければ彼のことを振り返れないという訳ではない。この日は晩年、まるで薬と演奏の自転車操業に追われていたかのようなChetにとって全ての苦痛から解放された日でもあり、私自身も「重たい荷物」を降ろして解放を祝うようになった。

 今夜の最後に流したのは、"Jazz At Ann Arbor" 。針が盤の上に落ちると同時に立ち上る妖気のような気配に圧倒される。このアルバムに収められた演奏を目を閉じて身じろぎもせず聴き切った後は、このまま全てが終わってしまえばいいのにとはいつも思うことだ。厭世ではなく、この音色で体が満たされたままでいたいという、ただそれだけ・・・。Remember Chet、雨の土曜は贅沢な時に満たされ、穏やかに過ぎた。毎年少しずつ、彼に近づけたかなと感じながら過ごす記念の日。
others (music) | - | - | author : miss key
これでいいと思えるもの
 何度かの引越を経て、これまで一度も開けられることのなかったダンボールを4箱も開いてみると、既に在ることすら忘れさっていたモノがどっさりと溢れて出た。

 例えば、酷いのは昔のMS-DOS時代のフロッピーディスク。私の家には今これを読み出す手段もない。メールやログなどが取ってあったようだが、処分した。その他も、もしかしたら使うかも、とかそういう類いの「品物」のオンパレードで、用意したゴミ袋はみるみるうちに満杯になる。

 思えば人生最初の20年間はごく限られた、でも自分にとってなくてはならない宝物や好きなものばかりに囲まれた生活だった。4畳半の自室で窓を開け放ち、ぼんやりラジオを聴きながら本を読む生活が今ほど贅沢だったと思えることはない。

 生活の空間は、その後の20年間で確かに物理的には4倍以上になったけれど、生活の豊かさがそれに比例しているかといえば、とても怪しい。だけど今という今になってようやく、ありのまま、気持ちに何の偽りも飾りもなく「もうこれでいいや」と思えるための物差しを、初めて見つけられたような気がした。

 風薫る初夏の日差しを入れながら、深呼吸してみる。おや、何かが飛んで来たと思ったら蜘蛛の子だった。不意の小さな訪問者に片付けの手も止まる連休の午後。
よもやま | - | - | author : miss key