音の快楽的日常

音、音楽と徒然の日々
こんなときこそラジオがいい
震災以来、電気屋さんからラジオの在庫が消えた。
特にポケットに入るような、通勤電車の中でサラリーマンの方が使っているようなもの。

あの、家に帰るにも難儀した夜のことは忘れられない。
職場で見たTV、何度も同じような津波の映像をガンガン流していたし、
テロップと映像が食い違ったような火災の様子も。
急なことなので、大勢に知らせるために同じような内容でも繰り返し流したのだろうが、
絵がすっかり頭にこびりついてしまい、情報過多が却って頭の中を混乱させた。
情報がいち早く必要な時に限って、必要な情報を選びとることは意外に難しい。

それに比べラジオは、
あのぎゅうぎゅう詰めのバスの中で、
どなたか親切な方がラジオを付けて周囲の者にも聞かせてくださったが、
情報もシンプルで分かりやすく、何しろ音声だけだというのが思いのほか有り難かった。

それで、わたしもポータブルラジオを買おうと思い、後日、量販店に出かけたが、
同様のことを考えられる方が多いのか、すっかり売り切れて次回入荷も未定とのこと。
新聞記事によれば、各メーカーが要請を受けて被災地に製品出荷を集中させているとのこと。
とはいえ、耐久性に難がありそうな海外製の廉価な製品には手を伸ばし難い。

ならば、と、
20年近く前に使っていたポータブルカセットプレーヤーにラジオが付いていたのを思い出し、
今夜、部屋に戻ってから早速家捜しをした。
わたしの初代ポータブルカセットプレーヤーはアイワのカセットボーイだったが、
高校に入ってから使い倒して壊してしまって今はもうない。
確かその機種にもチューナーパックというのが附属していてラジオが聞けたのだが。

それで押し入れから発掘されたのは下の写真のもの。

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パナソニックの製品で、なんと電池ホルダーも一緒に出てきた。
これがないと、ガムのような電池でなければ動かないのでまた難儀したところだった。

使わないで随分長い間放置してあったので故障しているかも、と思ったが、
充電した電池を入れて試してみると、ラジオの感度も良好、これならばっちり。
明日から、通勤の鞄に入れたまま持ち歩くことにした。
もちろん、非常の際の出番なんてないに越したことはないが。

じつは、ポケットには入らないまでも、
SONYのICF-4900というポータブルラジオが手元にあるが、
ボリュームがばかになってしまっているし、ガリも酷すぎてとてもイヤホンで聴けない。
見た目も使い勝手も抜群に気に入っているのだけれど、
修理に手間がかかりそうなので、故障したままにしていた。

もう一台あるポータブルラジオは単2電池が要るが、
近所ではまだ電池が売り切れなのでこれも出番なし。
うちはラジオだらけなのに、
テーブルに置く大きなタイプのものばかりであることに気が付いた(笑)。

話は逸れるが、こんなきっかけではあるけれど、
大勢の人がラジオやラジオ番組の楽しさに改めて気付き、見直されて、
ラジオ放送がもっと盛り上がっていけばいいなと思う。
ラジオ小僧の独り言が床に積もり積もった静かな夜。
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節電生活
何十年ぶりかの計画停電が始まってから、何日経っただろう。
わたしの住まいは停電エリアから外れてはいるが、 
職場には停電エリアから通勤する同僚もたくさんいるし、
そうでなくても、停電しないところに住んでいるというだけでかえって肩身が狭い。

利便を享受するよりは、周囲と同様に不便を被るほうが余程気が楽だ。
それではせめてもと節電の工夫をすることにした。
暖房は余程の時以外使わず、TVやラジオは視聴するとき以外はコンセントから抜いておく。
風呂など暗がりでも大して問題ないことは、キャンドルの灯りを頼りに済ませてしまう。
食事はおかずを纏めて作り、食材も買いだめない、だから冷蔵庫も電気を落とせる、等々。

PCも電源を落としてしまうので、ついblogの更新も滞ってしまったが、
眼精疲労に五十肩(医者は頸椎ヘルニアを疑っているが、せいぜい五十肩だと思っている)
なので、今のわたしにとってPCから離れることは一石二鳥なのだ。


ふと考える。
今回の計画停電はともかく、
何かに煽られるような不公平感、被差別感というのは一体どこからくるのだろう。
人一倍自分だけはと思う人間が少なくないから、
小売店の棚から食材やら電池やらその他便利商品が消えてなくなっているのだろうに。

勝ち組、なんて嫌な響きのことばが流行ったりする今どきは、
少々のことでいちいち驚いては世の中を渡ってはいけないが、
心の中のものさしがあまりに過敏すぎて、かえって役立たずになってはいないだろうか。

買物一つ出かけても、人間の持つ本質的でネガティヴな部分を目の当たりにする。
つい面倒なこと嫌なこと見たくないことを避けて通りたいという意識がはたらくせいか、
この一週間、体は動いても生産的な判断は何一つできないでいた。
頭がぼんやりとして、それが或る種の自衛なんだろうとは思っても、
まるで頭が停電状態で、この情けなさを何と表現するか。

今日は思い切ってあれこれ始末をせず、ゆっくりすることにした。
朝から将棋のNHK杯決勝戦を観戦し、メダカの水槽をきれいにし、
そして午後は部屋で音楽を楽しんだ(嗚呼、音と音楽の快楽よ!)。


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久々にじっくり耳を傾けたEarth Wind & Fireの"The Promise"。
このあとにもう1枚アルバムが出ているけれど、
いかにもEW&Fらしい作品というと、これが一番新しいもの。

歌詞もさることながら、
各々の個性を潰すどころかこれが相乗効果と言わんばかりのゴージャスなコーラスに、
いまのわたしに圧倒的に足りないものを無意識のうちに見いだしているのかも知れない。

日に日に食欲を増すメダカの姿に春の近いことを感じてはいても、
喉のつかえのような気の重さがなかなかすっきりとは取れないでいるが、
それもそのうち、まあ忘れた頃には楽になってるだろうと思いつつ、
折れそうな心のつっかえ棒にこれという音楽を聴く。
救われる、という感覚をこれほど強く感じた時はなかった一週間の終わりとはじまり。
pop & rock | - | - | author : miss key
地震酔いに翻弄された10日間
あの酷い地震からもう10日も過ぎた。
一時音信不通となり、どうしているのか心配でたまらなかった知人も皆の無事が分かり、
ほっとしたのか体の力も気力も抜け切ってしまった。

しつこい地震に閉口しつつ、
或は買いだめで棚ががら空きになったスーパーにあっけにとられながらも、 
少しずつ自分のペースを取り戻してきた。

でも、どうしても調子が今ひとつなのが、いつまでも揺れてる感覚が残っていること。
最初は本当に揺れていると思い込んでいたのだが、
周囲の人に訊くと、揺れてなんかいない、という。

地震から一週間くらい経ったころだったか、新聞か何かの記事になった。
正式な呼び方かどうかは知らないが、地震酔い、要するに船酔いのようなものだという。
同じ酔うなら美味しいお酒がいいよねえなどと思いつつ、
元々乗り物酔いしやすく、揺れに弱い質だったので、
或は高層階でのあの揺れが強いストレスになったのか、
どうも調子が狂ってしまったようだ。

でも、気のせいではなくて、理由のある感覚(ずれてはいるけれど)だったんだと納得。
それに、同じような感覚に見舞われた友人、知人も少なからずいて、
とにかく今は、できるだけ普段通りに生活するのが一番だと思うようになった。

***

地震で真っ先に思ったのが、家族や知人関係を除けば、うちのメダカとaudio装置のこと。
地震が発生してから職場待機がかかったため、すぐに帰宅できなかったので、
戻った頃にはもう死んでしまっているだろうと半ば諦めていた。
またスピーカーが倒れたりしてレコードプレーヤーも大破しているのでは、と
良からぬことばかりが頭を過った。

でも、メダカもaudioも何の被害もなくて、
被害というほどでもないが、強いて言えば水槽の水が揺れで溢れ出し、
近くにあったレコードジャケットを痛めてしまったことぐらい。
たまたま前の晩に聴いたシャレードのサントラだったが、
レコードはまた探して買えばいい。

うちのスピーカーはブックシェルフ。
本当なら頭でっかちなのでこれが一番先に倒れそうなものだが、
うちのスタンドには砂だの金属だのと、
鳴き止めと響きの調整のための重しがぎっしりつまっていて、
しかも本体にしっかりネジ止めされているから、案外持ちこたえたようだった。

また各装置もインシュレーターやスパイクなど、足下グッズは使っていないので、
すべったり、ずれたりというのが無かったことも幸いしたようだ。
何と言っても床に座る生活なので、ラックも低い位置で組んであり、
震度5強なら、揺れの方向によっては大丈夫ということのようだ。

そうはいっても、今回の地震の揺れが南北方向だったら、
おそらく、CD棚という棚は全部中身を吐き出して、部屋は酷い有様になっただろう。
背文字が見えるような置き方が一番探しやすいこともあって、
よく聴く盤ほど、スリーブに換装せず、プラケースのままなのだが、
これもデータで整理して、盤をもう少し整理した方が良さそうだ。

何はともあれ、今回のことでちょっとした反省点は山のようにあるけれど、
或は計画停電をするほど電力不足の中、部屋audioで音楽というのも気が引けるけど、
1日1枚のレコード鑑賞とメダカのぶくぶく用ポンプの電気だけは勘弁してもらい、
その他はできるだけ節電を心がけることとした。

そこで、今夜の1枚。

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谷村新司の3rdアルバム『引き潮』。
このレコードを買ったのはいつだったかな、まだ中学通ってた頃かも。
途中、CDも購入したが、同じ聴くならレコードの方がずっといい。

「冬の稲妻」から入ってソロ作品を聴くようになったのだけれど、
途中、ラジオの深夜放送にすっかりはまってしまい、
谷村新司さんのDJもMBSヤングタウン金曜や文化放送の番組など、
(天才、秀才、ばかという三段落ちの投稿コーナーが気に入っていた)
彼の歌を一生懸命聴くようになったのは高校を出るくらいの時からだったような気がする。

話が逸れたが、
このレコード、もう相当の回数聴いてるはずなのに、
そんなに雑音もなくていい感じで聴けるのがうれしい。

彼の若い頃の、人によってはちょっと重たいかもしれない歌唱だが、
大きな災害を機に、改めて自分が日本人であることを意識しはじめたら、
どうしてもこのアルバムが聴きたくなって、
1日1枚と決めたのに、このアルバムを寝る前に聴き始めて、そろそろ一週間になる。

自分の根っこを強く感じたいときの音楽というのは、
わたしにとっての常備薬のようなフロイドやChetではない、ということなのかも知れない。

谷村新司の歌う海は、どちらかというと日本海側の黒くて深そうな重い海で、
今回、大変な被害を受けた三陸海岸のような海とはイメージが異なるが、
灯りの消えた真っ暗な町から臨む夜の海に、
ひょっとして月明かりが揺れてるような、そんな景色があるとしたらー。


このアルバムの最後に収められた「青空」という歌。
今の自分の心情にとても近い歌。


  ・・・
  雨は空から あざけるように
  心の中に ふりしきる
  雨よおまえは知らないだろう
  傷つき悩む人の心を
  ああ限りあるこの人生
  ああちっぽけな人間たちよ
  
  昨日の明日が 今日になり
  今があるから 夢をみる
  雨よおまえに負けはしない
  雲の彼方はいつも青空
  ああ私には青空がある
  ああ終わることない青空がある ・・・
  

天罰、と言った人の揚げ足とりではなく、
何誰が悪いというのではなくて、どうしようもない天災に対して、
やるせなさと人間の弱さを思い知るけれど、
でも今日があってまた明日がくるのだからと、思い直す強さが人にはある。

この10日間、すっかり気が滅入ってめげていたけれど、
また頑張ろうと思えるようになった。
明日はまだ晴れ間が見えないようだけど、
雲の向こうに青空がきっと見えると信じて。  
よもやま | - | - | author : miss key
地震体験のあと
3月11日の午後、わたしは都心の高層ビルにいて、
いつもと何ら代わり映えのしない事務に追われていた。
天気が良かったから、同じなら事務所に籠らないで外に出たいという同僚の声を他所に、
目の前の山をこなさないことには来週が始まらないからと、
年度末の慌ただしい、何ら特別ではない1日だった。
それが。

正直、もうだめだ、と思った。
根拠は無い。
根拠は無いが、地震の多い地方で生まれ育った自分にとって、
その揺れ方は、来るべき物がとうとう来たかのように思えたのだ。


もっとも、築20年超のビルとはいえ、一応の免震構造でもって激しい揺れに耐えた。
大げさに言えば、獅子舞の首を振られるような、そんなぐるんぐるんという感覚にも似て、
あといくばくかの時間の経過の後に、わたしはここではないどこかに連れて行かれる、
そう思ったからか、無意識からか、
手元の資料の余白に意味不明の(後から思えば)走り書きをした。
日航機墜落をテーマにした映画のシーンを思い出したからかもしれないし、
書くことがわたしにとって一番得手の良い手段だったからかもしれない。

***

揺れがなんとか落ち着きを見せた後、
職場のTVで見た映像は、 いったいどこの世界かというような様相で、
映画かなにかの間違いかと思ったが、決して勘違いでも見間違いでもなかった。
わたしは人間が弱いから、想像を超えた現実を受け入れるのに時間がかかってしまう。

ビルの高層階からいち早く逃げ出そうというわけでもなく、
どこかに連絡をとるでもなく、ただ目の前の現実を受け入れられない自分がもどかしかった。

結果的に大事には至らなかった我が身であれど、
外の空気を吸いたいと外出の用を申し出てくれた同僚に、
もしもなにかあったらそれはわたしのせいだ、貴女まで巻き込むことになって、と、
映像に見た津波の如く、何度も何度も胃と胸の辺りを繰り返し苛む感覚。

***

地震があったのが先週の金曜で、今日は月曜。
それでも何だか、体が揺れるような、否、頭の中が揺れているような感覚が続く。
未曾有の大災害に見舞われた多くの方々を思えば何と言うことはないが、
わたしのなかの一部分が、
今もまだ、古いビルの高層階のあの瞬間に閉じ込められたままのような気がする。

***

音楽を聴けないほど気が塞いでいたけれども、
こんなときこそ、何か音楽を、
そう歌を聴こう、そう思って最近買った1枚をトレーに載せた。


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1曲目のコーラスに心洗われる。
表題の"Sigh No More"、この歌詞をどんな風に捉えたらいいだろう。

きしきしと言う揺れのひずみの音か、後悔の音かは知らないが、
今夜は、少しそれらを忘れて眠れるような気がした。
地震の日から3日経った静かな夜。
pop & rock | - | - | author : miss key
行きつけの店が突然無くなったような
数日とあけることなく読ませていただいていたblogが突然閉鎖されていた。
何日か様子をみて幾度か見に行ってみたが、どうやらデータが削除された様子。
何か事情があったのか、あまりに突然でお知らせめいたものもなかったので、
なんだか胸にぽっかりと穴があいたような気持ちになった。

ほんの数回、コメント欄でやりとりさせていただいただけのつながりであったが、
単なる音楽blogではなくて、同じPCの画面で読んでいても、
独自の世界、空気がふんわり広がるような、オーラのあったblog。
いつか再開を祈りつつ、
今夜はそこで紹介されていたサンソン・フランソワというピアニストの演奏を聴こう。


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当面box setは買うまいと決めた端から買ってしまった1箱。
なにせそのblogの主が勧めていたアルバム集だったから。

いい音楽との出会いは、単なる偶然やリスナー自身の努力など、
きっといろいろな要素があるだろうけれども、
確かな羅針盤をいくつか持っているということは、
出会いの確率を上げるために、やはり必要で、大切なことだ。

人生は誰にとっても有限で、聴きたい音楽を全部聴くことなんて到底無理だから、
だからこそ、一歩先を示してくれるようなそのblogはわたしにとってとても大切だったし、
そこを「覗く」ことはわたしにとって秘かな愉しみだったのだと思う。

いつか、どこか、このインターネットという空のなかで再会できますように・・・。

嗚呼それにしても、何というピアノの音色、
淡い花びらの色が突然朱に変わるかのような、はっとする艶やかさよ。
この時期独特の眠気がどこかに消えてしまうような弾き出しの一瞬。
よもやま | - | - | author : miss key
復活
久しぶりに髪をうんと短くした。
同じような目的の人ばかりではないだろうが、
カットハウスは随分混んで、ちょっとしたにぎわい。
昔の散髪屋のようなご近所さんの集いとは違うけれど。

帰るときにはもうコートは要らなかった。
軽くなったのは髪じゃなくて、気分のほう。

すこしずつ春が近づいている。
花粉症の酷さはとりあえず置いておいて、
木々の芽ぶきに気付く通勤途上がただ嬉しい。


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CとK違いで偶然知ったマーク・アーモンド。
こういう季節、こういう気分だからこそ、
オルガンの入った伴奏で少し「此処から遠い」感じのする音がいい、
72年の3rdアルバム、『復活』。

マーク・アーモンド、CDの中古はなぜか高くて、レコードは安く手に入りやすい。
音楽の中身が変わってしまうわけではないけれど、
どちらかと言えば、レコードがおすすめだ。
「復活」だけはなぜかCDも買いやすいのだけれど。


マーク・アーモンドのレコードは、
パチパチいう音でさえ音楽にとけ込んで、何という心地よさ。
午後の日が延びて、うとうとしたくなる頃にぼんやりしながら聴きたくなる。
歌の文句はなんだか哀しげだけど、
こんな季節の光の具合に寄り添うようにして、ほおを優しくなでられているような気がした。

気が付いたらもう3月、壁に貼ったカレンダーは先月のまま。
時の経つ音が聞こえそうで聞こえない、どこか落ち着かない週末の午後。
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ムラカミハルキが苦手なわたしでも読める本
単行本が平積みで売れに売れて、買えない人まで出てしまう、
そんな書き手はいまどきそうは居ないのかもしれないが、
村上春樹さんの作品はどうも苦手で最後まで一気に読めたためしがない。
否、「ノルウェイの森」は友達から借りたこともあって一晩で読んだっけか。

そういうわたしでも、店頭で手に取ってみて読んでみたい、
そう思えたのが『雑文集』。


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過去に何らかの形、例えば本の序文やCDのライナーノーツ、受賞の際のあいさつなどで
既に発表されたものを中心に編まれたもの。
だから、熱心な彼のファンの方なら今更感、ダブり感があるのかもしれない。

エッセイ集のようでいながら、そうでないところもありつつ、
村上作品の雰囲気、空気を掴むには小説よりも寧ろこちらの方が近道、といった、
わたしのような横着な活字中毒にはありがたい本だ。

それにしても、村上春樹の新作を予約してまで購入される方はどのくらいいるのだろう。
この本のどこだったか、売り切れて買えないようなことのない程度に本が売れてくれれば、
といったくだりがあったが、それが嫌みにならないのがすごい。 

音楽ファンなら、JAZZ、特に親交あるミュージシャンを題材にした小品などは、
電車の中で目を通していて、思わずほろりとくるような書きぶりで、
花粉と乾燥でもって酷い状態の目玉に恵みの潤いがもたらされることも。
うん、この感覚は間違いなくあの「ノルウェイの森」を読んだ時にもあったものだ。

そう、わたしの通勤時間(車中)はとても短いので、
こんな短編集は大いに助かるということもある。
ちょうど1話か2話を読み進めることができるので、
目で追いかけた字面が電車を降りて歩いている最中にうまくこなれて収まり具合も良い。

だからといって彼の作品をもっとどん欲に読んでみよう、と思うでもなく、
或はファンになったかといえばそうではないが、
独特の調子にはかなり慣れたし、免疫も少しついたかもしれない。
なので周囲からの「こんな面白い作品を何故読まないのか」といった突っ込みに
困惑することも、これからはあまりなくて済むかもしれない(笑)。

***

ところで、石原都知事は次の選挙には出ないとの報道がなされているが、
少し前の記者会見で「次の作品」について訊かれて応じたあの一瞬の目の輝きが印象的だった。
わたしにとって石原慎太郎という人は、政治家ではなくてやはり作家だ。
なので、彼の現時点での純文学作品を読めるのなら、ぜひ読んでみたいと思う。

年末だったか、中央公論の三島由紀夫特集本で石原慎太郎と三島との対談が掲載されていて、
なんというか、一言でいえば、刺激的だった。
文字から行間から、昭和という芳香を放つ数頁からあとずさりしたくなる向きもあるだろうが、
久しぶりにそんな匂いを嗅ぎ取ることができて、
書かれている具体な内容はともかくとして、とにかく刺激的だったのだ。

そういうものをつい求めてしまうからなのか、最近の平積みに手が伸び難い自分がいる。
なんでも咀嚼する馬力のようなものが最近はめっきりなくなっているので、
口当たりのよいものしか選べなくなっているのは、
これだけ様々な新著を手に取って選べる環境にいながら、それを活かせていなくて、
本当にもったいない話だ。

話は逸れてしまったが、もしわたしのように村上作品が苦手でちょっと、という方がいたら。
花粉症で集中力がもたなくても、肩肘張らず気軽に楽しめる1冊。
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