2011年の最後に | 2011.12.27 Tuesday |
時々、ふと思う。
あと1枚だけしか聴けない、としたら一体何を選ぶだろうか。
本当に切羽詰まったなら、たった1枚だって聴く暇もないのだろうけど、
俗にいう島レコードほどゆるり、とした感じではなくて。
結果的に、こういう性格だから、その1枚が選べないのだが、
例えば、たった1枚を選び取れる決断力、
これがわたしには最も欠落しているのだということを思い知った1年だった。
***
余程のことがなければ針を落とすまい、と決めていたレコードがある。
去年だかに買い求めたクラシックCDのBox Setにも入っていたが、
このアルバムはどうしてもレコードでなくてはならなかった。
作品によって演奏の振幅が激しいHorowitzは、わたしにとって難しい演奏者だ。
だからその時も、目の前でこのレコードが選ばれたことを特に気にかけるでもなく、
目の前に音楽が流れ出るのを静かに待っていた。
何気に流れたシューベルトのセレナーデであったが、
まるでマエストロが目の前、
というよりすぐわたしの隣でピアノを弾いているかのような錯覚に目眩がした。
偶々わずかな待ち時間の間、頭の中にこのメロディが流れていて動揺したこともあったが、
まるで身近な者に自ら話して聞かせる遺言のようで、
< 当時、不幸の直後でわたし自身がとても不安定であったのは確かだが
人前ながら涙が溢れるのを止める術もなかった。
以来、この1曲は二度と忘れ得ぬ、わたしにとって特別な曲となった。
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思えばこの1年、根拠のない不安に苛まれることが何度もあった。
不意に涙がこぼれたり、などということも1度ならず、何も辛くないのに、どうして。
自分の力や努力ではどうしようもない出来事が次々と目の前に起こった2011年。
何かすれば回避できたのか、自分の中にある種の烏滸がましさが透けて見えて情けなくなる。
それでも時は流れるし、前を向くしかないのだと痛感した1年だった。
こういうことがあったからこそ、聞ける時に良い音で音楽を聴けるようにと、
たくさんのCDをデータ化し、システムを組み直しもした。
< 不勉強ながらデジタルの方に一歩踏み出したところに、
被災地で電気の使えない時に蓄音機が多くの方の心を癒したというニュースに触れ、
ほっとしたような、また不意に足下を払われたような不思議な気持ちになったが。
そうすることが結果的に、
一体何を思ってこんなにたくさん音楽を聴いてきたのかを辿り直すことにつながり、
次にどうしていきたいのかがつかみ取れたような気もした。
それが勘違いであったとしても、とりあえず前を向こうと思えたことは救いだった。
***
そして、このレコード、"Horowitz at Home"。
ここまで書き進めてきたけれども、針を落とす気持ちにはやっぱりなれない。
今夜は特別な1枚を聴くに値する時間だと思いながらも。
あの時に聴いたあの音楽と全く同じものは取り出せないと分かりつつ、
今ならあの音楽が引き出せてしまうのではないかという奢りと、
聴いてしまった後の気持ちの整理の付かなさが容易に想像できてしまう心許なさと。
嗚呼やっぱり聴けない1枚というのが、いかにもわたしらしい1年の締めくくりだ。
そう、セレナーデではあまりにメランコリックかもしれないから、
同じHorowitzでトロイメライを。
おやすみなさい。そしてみなさま、どうぞ良いお年を。