最近、人の名前、例えばそれが昔の同僚であれ、俳優であれ、
とにかくど忘れの度が過ぎたとしか思えないほど、思い出せないことが増えた。
もともと、記憶を溜めるための容量は異様に小さいと思っていた我が頭の中身は、
どうやら春を待たずに溶けてしまったかに思えるほど。
なのに、くだらないことは矢鱈に覚えてしまっているようで、
何かの拍子に思い出しては、ああくだらないことをいつまでもとつい口にしてしまう。
競走馬の訓練に関して、「馬は嫌だったことはいつまでも覚えている」というのを思い出し、
案外そういうものかもしれないと思いながら、
この物忘れというか、人の名前が出てこないのは失礼な場面も多々あり得るので、
他のことは忘れても、何とかならないものかと頭が痛む。
先週末、Miklos Perenyiのコンサートに出かけた。
金曜、土曜と2日連続公演のうち、チケットが取れたのは初日のみで、
プログラムは2日目の方がコダーイやリゲティで良かったのだが、
何しろこの公演を知るのが遅過ぎて、初日の方も完売直前だった。
会場の朝日ホールは大きくも小さくもなく、最後列からの見渡しや音響も想像以上によくて、
1曲目のバッハ無伴奏から何とも言えない心地良さについ別の世界にいってしまいそうだ。
弓の引き具合というのか、これまで見たチェリストの中ではもっとも動作が小さく、
無駄な動きが削ぎ落とされた感じで、
会場の隅まで響いてくるその音色は、ひと言でいえば「嫋やか」だった。
音楽は音符の集合かもしれないが、ぼつぼつとした音の単なる集りではなく、
集まって全く別な1つの形になっていることに、
当たり前のことなのだろうけれど、改めて意識が向く。
息継ぎのようなぷつんと切れたようなところが一つもなく、
音楽は本当に当たり前のように難なくつながっていき、
1曲の演奏が終わったときの、楽器がふうっと大きな溜息でもついたような、
あの独特の余韻が今でも胸に蘇る。
前半は独奏で、後半は彼の子息でピアニストのベンジャミンとの共演で。
予定の演奏が一通り終わって、わたしの胸中はまるで洗濯でもしたように清々しかったが、
驚いたのは、アンコールの1曲目、フォーレの「夢のあとに」。
美しくてメランコリックなメロディを
穏やかな中にも艶やかな、どこか土の薫りのするチェロの音色に乗せて。
渇いた大地を自然の雨で潤していくような力に、
心の奥底にある、その存在すら意識することのない眼が開かれていく。
部屋に戻って、改めて聴くPerenyiの「夢のあとに」。
Kocsisとの共演で、彼の得意とするアンコール曲を集めたアルバムだ。
同じ人のチェロなのに、ついさっきほどの強い浸透力は、
この録音からは感じ取れないが、
それは演奏の質ではなく、
「わたしがあの会場の、あの場所に、どんな心持ちで音楽を聴いて、
それがたった1回こっきりの生演奏で再現はもうできない」
からこその体験であったからではないか。
Perenyiという音楽家は、録音した後にもそれが気に入らないと、
音源の回収をしたこともある方だときいた。
それは、演奏自体が気に入らないもので世に出すまいとしたのか、
或は演奏自体を再現するのにほど遠い音質であったから嫌ったのかは知らない。
ただ、そうしたエピソードから想像する峻厳さとは違って、
彼の演奏する音楽はどこまでも優しく、繊細で、そして嫋やかだった。
雪が降ったり止んだりの冷たい1日の終わりに、
思わず笑みが漏れる、忘れ得ぬ晩となった。